ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

湯梨浜町の史跡

ページID:0023775 更新日:2024年12月23日更新 印刷ページ表示

史跡

[史跡]伯耆一宮経塚

所在地:湯梨浜町宮内

伯耆一宮経塚

 伯耆一宮の南東の丘陵上にある経塚は、祭神下照姫命の墓と伝わり、元日の朝に塚の上で金の鶏が鳴くという金鶏伝説の舞台であった。
 大正4年(1915)に近在の数人が無断で塚を掘ったところ、地表から1月5日m下に、長さ1月2日m、幅0.9m、高さ0.5mの石槨(石で囲まれた空間)が出現した。中からは銅製の経筒などが発見され、経筒の銘文から平安後期の経塚であることが明らかになった。
 平安後期、世間には釈迦の教えが失われ世の中が乱れるという末法思想が蔓延していた。このため釈迦の正しい教えを後世に伝えようと、経典を丈夫な容器(経筒)に入れて土中に埋め、魔除けの鏡や刀子などを添え、その上に土や石などを積み上げた「経塚」が全国各地で作られた。経筒は一種のタイムカプセルで、末法が終わる56億7千万年後、弥勒が衆生を救うために来迎する際に必要だと考えられていた。

[史跡]橋津(馬ノ山)古墳群

所在地:湯梨浜町橋津・上橋津

橋津古墳群
4号墳

銅鏡  線刻された人物像
内行花文鏡                      円筒埴輪片の線刻人物像

 日本海と東郷池を見下ろす馬ノ山の丘陵に28基の古墳が点在しており、これらを総称して橋津(馬ノ山)古墳群という。5基の前方後円墳、21基の円墳、2基の方墳が確認され、古墳時代前期(4世紀)から後期(6~7世紀)まで長期間大規模な古墳が造られ続けているため、日本海及び東郷池の水上交通を支配した強大な勢力が数百年にわたって存在していたと考えられる。1~12号墳、14号墳、21号墳の14基が国の史跡に指定されており、山陰の古墳文化を考える上で非常に重要な古墳群である。
 中でも橋津(馬ノ山)4号墳は推定全長100mを超える大型の前方後円墳で、埋葬施設が12基も確認されている。後円部の竪穴式石室からは銅鏡5枚のほか、勾玉、管玉、石釧(いしくしろ)、車輪石、直刀、剣、鉇(やりがんな)、斧、鋸が発見されており、これらの豊富な副葬品から、古墳時代前期(4世紀)の古墳であることが判明している。そのほかの埋葬施設からも銅鏡、埴製円筒棺などが出土しており、一部は羽合歴史民俗資料館に展示中。
 頭に2本の鳥の羽のようなものを付けた人物像を線刻した円筒埴輪片(同志社大学所蔵)も発見されており、古墳時代における人物埴輪成立以前の人物表現例として非常に貴重である。

[史跡]北山古墳

所在地:湯梨浜町野花・長和田

北山古墳

 東郷池南岸の標高50mの丘陵上にある、全長110m、後円部直径70mの前方後円墳で、墳丘には葺石が見られ、山陰地方最大級の古墳である。
 後円部は大正期に盗掘により破壊されていたが、長さ5~6mの竪穴式石室があったものと考えられている。発掘調査で石室の排水溝が確認され、管玉や短甲の一部が発見されている。
 石室の南2mの所では箱式石棺が見つかっており、中国製の銅鏡、勾玉、管玉、なつめ玉、鉄斧、鉄刀などが出土している。そのほか、盗掘された周辺から籠目土器(籠に粘土を押しつけて作った土器)なども見つかっている。墳丘からは円筒埴輪や朝顔形埴輪のほか、楯・短甲・錣(しころ)・鶏などの形象埴輪も見つかっており、これらの出土品などから5世紀前半頃の古墳と考えられる。山陰を代表する古墳として貴重である。

[史跡]鳥取藩台場跡 橋津台場跡

所在地:湯梨浜町はわい長瀬

鳥取藩台場跡 橋津台場跡

 橋津川河口西岸にある国史跡の鳥取藩台場跡の一つ。諸外国との緊張関係が高まっていた幕末期、幕府・諸藩は各地に異国船を打ち払うための砲台(台場)を築いた。鳥取藩も海岸線に8か所(浦富・浜坂・賀露・橋津・由良・赤碕・淀江・境)の台場を築造した。橋津に設置されたのは、近くに港と藩倉があったためと考えられる。橋津台場は文久3年(1863)に造られ、現在は波で前方部が侵食されているが、もとは六角形をしていたと考えられている。高さ4m、東西138m、南北50m以上の規模であったと推測されている。橋津4号墳の盛土が運び込まれて造られた土塁からは、埴輪が見つかることがある。長瀬村の大庄屋戸崎久右衛門以下の豪農や農民らが、積極的に工事に協力した。橋津台場には18斤砲、6斤砲、3斤砲、5寸径砲の計4門が設置されていたと考えられている。

[県指定]羽衣石城跡

所在地:湯梨浜町羽衣石

羽衣石城跡

羽衣石城跡

 東伯耆の有力国人南条氏の本拠地の山城で、出雲守護塩冶高貞の次男貞宗が、貞治5年(1366)に築いたと伝わる。南条氏は室町時代に伯耆守護山名氏の守護代を務め、戦国期に出雲の尼子氏が伯耆に侵攻すると、安芸の毛利氏に与して対抗した。尼子滅亡後は河村郡・久米郡・八橋郡を領有し、毛利氏の山陰支配の一翼を担った。
 天正年間(1573~1592)に織田信長の中国攻めが始まると、調略を受けて天正7年に城主南条元続が毛利方を離反し、西伯耆から因幡へのルートを遮断して羽柴秀吉の鳥取城攻めを支援した。そのため羽衣石城は毛利方の吉川軍の激しい攻撃を受け、多くの城兵が離散した。本能寺の変の後、秀吉と毛利氏が和睦すると、南条氏は再び羽衣石城を拠点に東伯耆を領有したが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に与して敗れ、廃城となった。
 標高372mの急峻な山の頂上に、本丸・曲輪(くるわ)・虎口などの遺構が残る。本丸跡は東西66m、南北20m、北西の尾根上を中心に大小多数の曲輪跡が存在する。瓦の出土はなく、城は板葺または草葺であったとみられる。16世紀の陶磁器・土器が多数出土しており、合戦の際の籠城に実用されていたことがうかがえる。昭和6年に南条氏の子孫が本丸跡に私財を投じて、トタン製の模擬天守を建立。その後平成2年に現在の天守へ改築された。

羽衣石城跡の紹介ページ

[町指定]河口城跡

所在地:湯梨浜町泊・園

河口城跡

 因幡国境に位置する陸海交通の要衝に築かれた山城跡。泊漁港の南にそびえる標高68mの山頂部に、東西40m、南北60mに渡り曲輪、空堀、土塁、礎石、石垣などの遺構が残る。北側は海が迫る絶壁、南は山地へと続き、東西に走る山陰道に立ち塞がる天然の要害である。建武4年(1337)に伯耆国守護職に任ぜられた山名時氏は、倉吉市の田内城(後に打吹城)を拠点に守護職を世襲し、因幡との国境近くに前線基地として河口城を築き、城主には代々一族の者を充てた。
 『伯耆民談記』などによると、戦国初期に出雲の尼子氏が伯耆に侵攻、城主山名久氏は戦に敗れて因幡へ落ち延び、河口城は尼子氏の所領となる。天文年間、安芸の毛利氏を攻めるため尼子方の諸将が留守にした際に、かつて尼子に敗れた東伯耆の諸将が、旧領奪還のため河口城などを攻撃するもすぐに反撃に遭った。永禄年間に毛利氏によって尼子氏の勢力が駆逐されると、久氏は城主に復帰して、河口城は毛利水軍の拠点となった。天正年間に羽柴秀吉の因幡攻めが始まると、河口城は秀吉軍に包囲された鳥取城を救援するための前線基地となった。そのため織田方に与した羽衣石城主南条元続から幾度も攻撃を受けたが、巧みな戦術により退け続けた。しかし天正9年(1581)に秀吉の水軍に海から攻められ、泊の港に停泊していた軍船65艘を破壊され、補給が途絶えた鳥取城は落城した。天正10年に秀吉と毛利氏が和睦すると、河口城は南条氏の所領となったが、関ヶ原の戦いで西軍に与した南条氏が敗れると城は焼失した。

[町指定]報國盡忠碑

所在地:湯梨浜町橋津

報國盡忠碑

 明治維新以降の国難(戊辰戦争、西南の役、日清・日露戦争など)に殉じた戦没者や、郷土発展に尽くした功労者を顕彰し後世に伝えるため、奨恵社が明治21年(1888)から橋津1号墳のある宮山を整備して建立した。「報國盡忠碑」の周囲に、「奨恵社碑」「紀功碑」(表裏一体)、「頌徳紀功」、「千載流芳」、「流休垂裕」の4基の石碑が並び、激動の明治期における郷土の歴史の一端がうかがえる。

[町指定]宮戸弁天

所在地:湯梨浜町宮内

宮戸弁天

 倭文神社の北西の東郷池のほとり、かつては小島であったが現在は埋め立てられて陸続きになっている場所に、宮戸弁天と呼ばれる祠と大岩と鳥居があり、七福神の紅一点である弁財天が祀られている。かつては伯耆一宮の七弁天と称して、地内の水辺7か所に弁財天が祀られていたとされるが、現在祠が残っているのはここだけである。
 地元の伝承によれば、倭文神社の祭神である下照姫命がこの島で釣りを楽しんだとされ、姫の使いの白蛇がこの島から池を渡り、南西の対岸の小島まで往復していたという。
 対岸の小島はこの伝承に基づき「龍(蛇)の渡る島」で「龍渡島」と呼ばれるようになり、後に湖中から温泉が湧いて明治以降に温泉地となったため「龍湯島」とも呼ばれた。現在は「龍島(りゅうとう)」と表記され、小島は埋め立てられて陸続きになっている。