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羽衣石城跡(県指定史跡)

印刷用ページを表示する掲載日:2023年7月11日更新 <外部リンク>
羽衣石城跡

史跡の概要

​​ 羽衣石城(うえしじょう)跡は、伝承によれば塩冶判官の名で知られる南北朝期の出雲守護・塩冶高貞の次男・南条貞宗を初代城主とし、貞治5年(1366)に築城された中世の山城の遺構です。南条氏の東伯耆支配の拠点として、戦国期には尼子・大内・毛利・織田などの攻防により落城と回復を繰り返し、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで南条氏の属する西軍が敗れて廃城となるまで、約230年間にわたり使用されました。

 標高372mの急峻な山の頂上に、本丸・曲輪(くるわ)・虎口などの遺構が残ります。本丸跡は東西66m、南北20m、北西の尾根上を中心に大小多数の曲輪跡が存在し、中世城郭としては相当な規模を誇ります。

 昭和6年に南条氏の子孫が本丸跡に私財を投じてトタン製の模擬天守を建立。その後平成2年に現在の天守へ改築され、平成13年には県史跡に指定されました。

※模擬天守は常時施錠しています。見学希望の方は事前にお問い合わせください。

羽衣石城 羽衣石城(桜)

 写真(左):小谷哲夫さん

山頂部の城郭遺構

城郭遺構

赤色立体図で見る城郭遺構

赤色立体図

【番城】

 羽衣石城の北北東500mに築かれており、標高400mで羽衣石城よりも高い。羽衣石城の物見をする砦とみられ、一部に帯曲輪の遺構がみとめられる。

【十万寺城】

 羽衣石城の南方850mに築かれた山城。主郭は東西70m×南北50mの規模で、内部は未造成だが、南側を除く羽衣石城側の三方に明瞭に土塁が残されている。南側も一段高く通路状となり、西側曲輪群へと接続するため、土塁としての役割も兼ねていたと考えられる。東と北西に巨大な堀切を設け、その間も空堀状を呈し、北側の防備を固めている。東側に突出する曲輪との間には堀切を設けて切断し、西側へと続く曲輪の両側には竪堀が見られる。

羽柴秀吉VS吉川元春 馬ノ山の対峙と十万寺城

 東伯耆の国人・南条氏は、戦国期には毛利氏と手を結び、出雲の尼子氏滅亡後は、伯耆三郡を支配する毛利氏山陰支配の一翼を担う存在であった。

 天正3年(1575)、当主の南条宗勝が病死して元続が跡を継ぐと、織田信長による調略が開始された。元続は同7年に毛利方の家臣を討伐し、織田方への寝返りを鮮明にした。南条氏を味方に引き入れた翌年、織田信長家臣の羽柴秀吉は因幡へ侵攻した。

 天正9年(1581)6月、秀吉は2万余りの兵を率いて第2次鳥取城攻めを開始し、城兵への兵糧攻めに成功する。毛利方の吉川元春は、鳥取城救援のため月山富田城から兵を東へ進めた。吉川勢はまず南条氏の羽衣石城攻略を目指し、10月25日には馬ノ山に陣を布く。そしてさらに前進しようとしていたところに、鳥取城落城と吉川経家自刃の知らせが届くことになる。

 その頃、秀吉は姫路へ帰陣の準備を整えていた。そこに南条元続とその弟・小鴨元清から助勢要請が届く。それは吉川元春が、羽衣石城攻撃の準備をしているという内容であった。秀吉は10月27日、「高山」に着陣し馬ノ山の吉川元春と対峙したと、江戸時代の地誌類に書かれている。

 秀吉軍数万に対し、吉川勢はわずか6千だったとされるが、鳥取城で散った吉川経家の弔い合戦に望むべく、その戦意は高かった。秀吉は犠牲を考慮して決戦を避け、羽衣石城に食料と弾薬を補給することにした。峰伝いに輸送を開始する秀吉軍に対し、吉川勢は松崎付近まで出撃し妨害を加えたという。無事に物資を補給した秀吉は陣を引き払い、元春も主力を率いて月山富田城へ帰陣した。両軍は互いの実力を認め合った上で、衝突することなく撤退したといわれている。

 この秀吉が着陣した「高山」について、従来は馬ノ山の南東2kmにある「御冠山」説が定説であったが、近年「十万寺城」であったとする説が注目されている。十万寺城は眼下に羽衣石城を見下ろすだけでなく、その先の馬ノ山までをも見通すことができる。また、番城も同時期に救援のために築かれた山城である可能性がある。

 織田・豊臣政権の陣城の遺構としては、小谷城攻め、三木城攻め、鳥取城攻め、小田原城攻めなどの際に築かれたものが残されているが、これらの陣城はすべて城攻め用のものである。しかし十万寺城は、城攻めではなく羽衣石城の南条氏の救援のために築かれた城とみられ、他に類例のない貴重な遺構である。

馬ノ山

吉川元春が陣を布いたとされる馬ノ山(写真中央はハワイ風土記館

空から攻める羽衣石城塞群(動画)

 動画:堀切凡夫さん​

羽衣天女伝説

羽衣岩

 羽衣石城跡がある羽衣石山の地名の由来となった伝説。

 あるとき羽衣石山に舞い降りた天女が水浴びをしていると、麓に住む農夫が岩の上に脱ぎ置かれた羽衣を見つけて隠してしまった。天へ帰れなくなった天女は仕方なく農夫の妻となり、2人の子どもをもうけた。

 ある日天女は子ども達から隠し場所を聞きだして羽衣を見つけると、それをまとって天へ帰ってしまった。2人の子どもは近くの山に駆け登り、鼓を打ち笛を吹き母が好きだった音楽を奏でたが、ついに母が戻っ

てくることはなかった。その後、天女が舞い降りた山は「羽衣石山」、2人の子どもが鼓を打ち笛を吹いた山は「打吹山」と呼ばれるようになったという。

 天女の夫を農夫ではなく初代城主・南条貞宗とする伝承もある。

東郷浪人踊(県指定無形民俗文化財)​

東郷浪人踊

 天正7年の南条氏と毛利氏の合戦は東郷池が真っ赤に染まったといわれるほど激しく、翌年の盆から東郷池のほとりで、戦死者の霊を弔うための踊りが始まり、毎年7月に続けられた。その後、関ヶ原の戦いにより羽衣石城が廃城になった翌年、各地に潜んでいた南条氏の浪人たちがどこからともなく集まり、黒紋付に身を包み菅笠で顔を隠し、三々五々の念仏踊りに加わって、夜明けとともにまたどこかへ散っていったという。

 この踊りが後に「浪人踊」と呼ばれるようになり、昭和37年には県の無形民俗文化財に指定された。現在も毎年7月に開催される水郷祭で、地元保存会により行われている。

パンフレット等

 羽衣石城跡関係のパンフレット等のPDFデータをご覧いただけます。

 羽衣石城跡リーフレット (PDFファイル:777KB)

 十万寺城跡リーフレット (PDFファイル:678KB)

 2019年に開催した羽衣石城シンポジウムのパンフレット (PDFファイル:8.08MB)

 シンポジウムパンフレット

羽衣石城跡への行き方

 JR倉吉駅から駐車場まで車で約15分

 JR松崎駅から駐車場まで車で約10分

 駐車場から本丸跡まで登山道を徒歩約30分

羽衣石城跡周辺案内図

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