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湯梨浜町の有形文化財(彫刻)
有形文化財(彫刻)
[県指定]弘法大師坐像
所在地:湯梨浜町石脇
写真提供:鳥取県立博物館
木喰上人(1718~1810)は寛政10年(1798)、81歳の時に湯梨浜町に滞在し、優れた作品を4点のこしている。
本像は像高62cm、桜材と思われる一木造で、粗削りの白木造りである。右手に五鈷杵を握り、左手に太めの数珠を持つ。少し猫背で台座に座り、眼を閉じた思惟の相で、弘法大師通有の姿を表す。微笑を浮かべた丸顔で、眉毛に薄く墨が入れてある。
木喰上人が7月1日から8日まで石脇村に滞在した時の作で、光背の裏に7月3日の墨書銘がある。元は集落の中心部にあった十王堂に奉納されたが、明治16年(1883)の火災で民家20数戸とともに十王堂が焼失したため、十王像と共に石脇区東方の観音堂へ移された。
[県指定]木造恵比寿像・木造大黒天像
所在地:湯梨浜町園
【恵比寿象】像高82cm、一木造で、長い立烏帽子を着けた、狩衣、指貫姿。大きな耳や丸い鼻、深く彫り込んだ衣文等に特色がみられる。微笑んだ口元には、「微み笑しょう仏」と称される木喰上人の独創的な作風が色濃くみられる。大黒天像と共に、石脇滞在後から7月15日まで泊の称名寺に滞在時の作とみられる。大黒天像と共に園の恵比寿神社に奉納された。
【大黒天像】像高68cm、一木造で、頭巾をかぶり、右手に打出の小槌を持ち、大きな袋を背負う。あご髭をたくわえ、満面の笑みの表情をみせる。米俵の上に乗せた大きな袋に跨ぎ乗るという大胆な表現は、自由な作風で知られる木喰仏の特徴をよく表している。
[県指定]大日如来坐像
所在地:湯梨浜町高辻
写真提供:鳥取県立博物館
像高82cm、桜材の一木造で、宝冠をいただき智挙印を結ぶ金剛界の大日如来である。柔和な丸顔と丸鼻で、目を閉じた思惟の相である。彫りの深い刀法で量感に富む仕上がりとなっており、木喰仏の特徴をよく表している。光背の裏に墨書があり、「木食のけさや衣はやぶれても 己が本願はやぶれざりけり」という詠歌から、木喰上人が廻国修行に懸けた想いの強さがうかがえる。
[町指定]薬師如来像
所在地:湯梨浜町中興寺
龍徳寺の位牌堂に安置されている。寄木造で、像高72cm。元は漆原の万福寺にあったが、廃寺となり大正初期に移された。承応2年(1653)の銘がある。
龍徳寺は曹洞宗で、倉吉市和田の定光寺3世の高弟・端翁玄鋭が永正年間(1504~1521)に開いたといわれるが、前身は伯耆一宮の神宮寺であったとも伝わる。25世の泰雲和尚は書画にすぐれ、西向寺などの天井絵で知られる。
[町指定]西向寺の仏像(十一面観音菩薩立像・不動明王像・毘沙門天立像・青面金剛像)
所在地:湯梨浜町松崎
松崎にあった天台宗の貴法院に伝来したが、廃寺となり昭和34年頃に松崎の西向寺に移されて、本堂左側の外陣に安置されている。十一面観音菩薩立像は寄木造の漆箔像で、像高113cm、衣紋の流れが優美であり、宝冠飾りが左右に大きく広がっているのが特徴的である。
鎌倉末~室町時代の中央仏師の作とみられる。同じく室町時代とみられる毘沙門天立像、不動明王像、青面金剛像も伝わる。
[町指定]中将姫像・阿弥陀二十五菩薩立像
所在地:湯梨浜町引地
中将姫像は木造、彩色、像高48cmで、室町時代の作とみられる。本堂の厨子に安置されているが、中将姫の命日とされる旧暦3月14・15日だけ仮堂に移され、練供養が行われる。九品山大伝寺の開創は万寿元年(1024)で、大和の当麻寺から中将姫の遺跡を練供養で引き移したため、当地が「引地」と呼ばれるようになったとの地名伝承が残る。中将姫像に付随して、25体の阿弥陀二十五菩薩立像も伝わる。
中将姫は奈良時代の右大臣・藤原豊成の娘で、5歳で母と死別し、9歳で宮中に出仕して三位中将の位を得るが、継母の妬みを買って14歳の時父の留守中に命を狙われ山中に隠れ住んだ。翌年父と再会したが、俗世を厭い当麻寺で出家して一心に仏行に励んだ。仏の助けを借りて一夜にして蓮糸で「当麻曼荼羅」を織り上げ、29歳の時に二十五菩薩が来迎して西方極楽浄土へ旅立ったとされる。
[町指定]聖観音立像
所在地:湯梨浜町埴見
円通庵の本尊で、元は字舟谷の草堂に安置されていた。鎹かすがい止めの寄木造で、像高165cm。顔も胴体も扁平で彫が荒く、内刳りもなく、近郷の仏師の手によるとみられる素朴な像である。背部全面に承応3年(1654)とみられる銘がある。
[町指定]泊の地蔵菩薩
所在地:湯梨浜町泊
ケヤキ造、像高90cmで、泊地蔵堂の本尊である。天正14年(1586)、泊村の住人圓藤小石衛門の草創と伝わる。
信仰心が厚く正直であった小石衛門はある日、夢枕に立った弘法大師作地蔵の使いという童子のお告げを受け、仲間の漁師と光り輝く場所に網を入れ引き上げたところ、大洪水によって海に押し流された大山寺の弘法大師作の地蔵が入っていた。小石衛門は地蔵に付着している海草、貝類を丁寧に取払い、称名寺の境内に草庵を結んで丁重に祀った。その後、小石衛門は再び瑞夢を見て「この地蔵を港の傍らに遷座すれば、海陸共に守護するであろう」とのお告げを受け、村人と当時の泊番士伊木安右衛門の援助によって、波打ち際に堂を建て遷座した。以来この地蔵尊は霊験あらたかに海陸の守り仏として、今日まで篤く崇敬されている。
像内には、「本願軍祐 天正十四年一一月二七日敬白」の銘がある。
[町指定]丈六の地蔵菩薩立像
所在地:湯梨浜町橋津
西蓮寺本堂の前に宝暦7年(1757)に造立された、像高5.5mの石像である。当時悪病が流行し、橋津でも70余人の死者があり、そ
の多くが子どもであった。その慰霊のため、当寺の12世面蓮社見誉上人が地蔵菩薩立像の造立を発願し、後職の観誉上人が成就させた。
明治38年(1905)の「地蔵菩薩像由来記」によると、仏体の石は宇野から、台座の石は橋津から出たもので、尊像がひとりでに台座の上にのったなど、数々の奇跡があったと伝わる。8月23日の地蔵盆では、大勢の老若男女により「茶町踊り」が奉納されている。
[町指定]灘郷神社狛犬一対
所在地:湯梨浜町泊
文久2年(1862)、川積村(現鳥取市青谷町)の尾崎六郎兵衛(川六)の作。台座に「石工因州川六」の銘がある。旧園神社から移設された。地元産の比較的硬質の無斑晶安山岩を用いているため、保存状態が良い。
尾崎六郎兵衛は、幕末期の因幡国気多郡を中心に活躍した石工で、作品の署名を「川六」としたものが多い。青谷周辺の神社や寺院に、狛犬、鳥居、常夜灯、地蔵尊など、多くの優れた作品を遺している。この狛犬は川六の晩年に近い作で、大きな目と耳、押しつぶれて平らになった大きな鼻を持ち、迫力や凄みがあるにも関わらず、どことなく親しみが感じられる。川六の作品としては、ほかにも嘉永3年(1850)の旧石脇神社の鳥居が遺る。