本文
湯梨浜町の有形文化財(建造物)
有形文化財(建造物)
[重要文化財]尾崎家住宅
所在地:湯梨浜町宇野
古風な構造と庭に開かれた座敷を持つ江戸中期の豪農屋敷。日本海に面して三方を丘陵に囲まれた宇野集落の最奧部(最南部)に位置し、東に隣接する安楽寺と共に、歴史的景観を今に伝えている。
尾崎家は家伝によれば、周防(現山口県)の守護大名大内氏の子孫で中世に宇野に移り住み、近世以降は宗門改めなどを行う宗旨庄屋や大庄屋を務めた。5代当主清右衛門が、それまでの屋敷が手狭になったため現在の敷地に移り、主屋、仏間、数棟の蔵、門長屋などを新築した。
主屋と庭園、門長屋、蔵などの付属建物を含めた屋敷構えが一体となって保存されており、江戸中期の当地方における上層農家の住宅形式を明らかにする上で、歴史的価値が非常に高い。令和3年の主屋解体修理工事で「元文四年(1739)」の墨書が発見され、建築年代が明らかになった。
[県指定]安楽寺
所在地:湯梨浜町宇野
往古は伯耆一宮神宮寺の天台宗の一院として、「正来院」と号していた。2代住職恵日が承応2年(1653)に真宗(大谷派)に改宗し、「青柳山安楽寺」と改号したとされる。境内には尾崎家代々の墓と約3mの巨大な経筒形の墓碑があり、この土地で尾崎家が特別な存在であったことを物語っている。
本堂・山門・鐘楼は、文化2年(1805)から尾崎家7代当主清右衛門が発願し順次再建されたもので、確認されている中で現存する県内最古の真宗寺院建築である。安楽寺の建物すべてにおいて、雪対策のために強く湾曲させた垂木など、大工の細部にまで至るこだわりと技術の高さがうかがえる。中でも本堂正面の海老虹梁に施された彫刻は、リアルな海老の丸みを1本の木から彫り出して表現しており見事である。鐘楼には蝉などの独特な彫刻を見ることができる。
[県指定]橋津藩倉(古御蔵・片山蔵・三十間北蔵)
所在地:湯梨浜町橋津
古御蔵
片山蔵
三十間北蔵
東郷池と日本海をつなぐ橋津川河口に設置された、鳥取藩の年貢米を集積・貯蔵するための米蔵である。藩内の各村から納められた年貢米のうち、換金用の米は灘蔵と呼ばれる海上輸送に便利な沿岸部の蔵に集積された。鳥取藩内には岩本・浜村・青谷・橋津・由良・逢束・赤碕・御来屋・淀江に灘蔵が設置されたが、現存するのは橋津のみである。また全国には1万か所以上設置されたと推測されるが、現存するのは橋津を含めてわずか数か所のみである。
橋津藩倉は正保2年(1645)と県内で最も設置年代が古く、また最大規模のもので、建物16棟、建坪602坪もあった。旧河村郡の79か村と旧久米郡の一部31か村から5万俵以上の年貢米が収納された。集積された年貢米は橋津港から千石船に積まれ、西廻り航路と関門海峡の潮流を乗り切り、瀬戸内海を航行して大阪の土佐堀にある鳥取藩の蔵屋敷に納められた後、大阪市場で換金され藩の財源となった。
明治期に入り廃藩置県と共に藩倉としての役目を終えたが、その後、一部の建物が改修され、橋津尋常高等小学校の校舎として利用された。また、明治10年(1877)には地租改正により圧迫された農村経済を改善するため、豪農の有志により共同倉庫(のちの奨恵社)が設立され、橋津藩倉の建物・敷地を拠点に金融・倉庫業が営まれ、その利益が困窮農民を援助する慈善事業に活用された。その後、山陰本線の開通による海上輸送の衰退と共に建物は徐々に解体されていったが、一部は農業倉庫などに利用された。現在は古御蔵・片山蔵・三十間北蔵の3棟が残されており、片山蔵では藩倉の歴史について展示されている。(見学は要問合せ)
[県指定]籠守神社
所在地:湯梨浜町埴見
現在の社殿は元禄13年(1700)の建立で、県中部で最も古い神社本殿建築である。県内で同様の社殿は一間社が多い中、三間社流造と、比較的規模も大きなものである。建築年代の決め手となったのは蟇股(かえるまた)の裏の墨書で、元禄13年に備前国の横山益三という大工が建てた旨が記されている。祭神は航海守護の住吉三神であり、かつて東郷池がこの辺りまで及んでいたことの名残りとも考えられる。
「東郷荘下地中分絵図」には現在の埴見地内に「土海宮」の記載があり、土海は「はなみ」とも読め、籠守神社宮司家に「土海宮神主」と書かれた文書が伝わっていることから、同社がかつて土海宮と称していたことがうかがえる。
埴見地内には現在も「土海(どかい)」姓が多くあり、明治22年(1889)の町村制導入時には、野花、長和田、羽衣石、門田、佐美、長江の6村と合併して「花見村」を称するなど、「はなみ」の名は地域の歴史に深く刻まれている。
[町指定]一石彫成五輪塔
所在地:湯梨浜町筒地
五輪塔は平安末期~室町時代に普及した供養墓で、仏教の五大の思想に基づき、下から地輪(方形)・水輪(球形)・火輪(屋根型)・風輪(半球形)・空輪(宝珠型)を積み上げた形状をとる。
この五輪塔は一つの凝灰岩から彫り出されており、高さは43.8cmで、東西南北の四面に梵字が刻まれている。
故人の笹塔婆あるいは遺髪などを納めたものと思われ、保存状態が極めて良好である。造立年代は基礎部分の比率が低いほど古いとされ、この五輪塔は宝珠、軒反りの形状からみて、鎌倉中期と推測される。地輪・火輪が大面取りにされているなど、珍しい構造形式を持つ。
[登録有形文化財]旧富士市橋家住宅
所在地:湯梨浜町小鹿谷
大正10年(1921)に建てられた、近代当地方の代表的な民家建築である。木造平屋建て、入母屋造りの大屋根を架け、四方に下屋根をまわす。葺き替えられる前は石州来待色の桟瓦葺きであった。外壁は土壁下地漆喰塗り仕上げである。東西に棟を通し、北側に正面出入り口を配置する。
市橋家は小鹿谷に陣屋を構えた鳥取藩家老・和田氏に従って当地へ移住した旧家で、天保8年(1837)頃からは造酒業で財を成した。富士市橋家はその分家で、当主の市橋陽之助は大正7年(1918)から昭和2年まで奨恵社の理事を務めた。