長瀬高浜遺跡発見50周年記念講演会「巨大集落遺跡と埴輪を語る」 ご質問への回答
長瀬高浜遺跡発見50周年記念講演会でのご質問について
2024年10月12日に開催した記念講演会においては、参加者の皆さんから多数のご質問をいただきましたが、時間の都合によりごく一部のご質問しか取り上げることができませんでした。
当日取り上げられなかったご質問について、(公財)鳥取県教育文化財団調査室からの回答を掲載します。
(公財)鳥取県教育文化財団調査室による回答
※類似したご質問はまとめて回答しています。
※一部回答できないご質問があることをご了承ください。
鉄器を作る時の原料は砂鉄でしょうか? 発見された鉄製品の鉄はどこから持ってきたのか?
長瀬高浜遺跡が栄えた時代(古墳時代前期~中期)の日本列島には、砂鉄や鉄鉱石から鉄を作る技術はまだなかったと考えられており、朝鮮半島からもたらされた鉄素材を鍛冶炉で道具に加工して使っていました。日本列島で鉄鉱石から鉄を作るようになったのは古墳時代後期(6世紀)とする説が有力です。
近隣地域の様式の土器があるということは、交易があったということですか?
長瀬高浜遺跡からは近畿地方、岡山県、滋賀県、朝鮮半島のものと考えられる土器が出土しており、これらの地域と交流があったと考えられます。
(埴輪などの)土器の土は何処で取れたか?長瀬で産出?
遺跡がある場所は砂丘であり、土器・埴輪作りに使える粘土は簡単には採取できませんので、近隣で採掘された粘土が使われていたと考えられます。なお、土器に使われた粘土に含まれる元素の分析(胎土分析)からは、1箇所ではなく複数個所の粘土が使われていた可能性が指摘されています。
石棺に赤色顔料が塗られていたのは当時はどういった意味で施されていたのか。
残念ながら、赤く塗ることにどのような意味があったのかははっきりとはわかりません。日本列島では、墓に赤色顔料を用いる例は旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代の各時代に見られます。一般的に赤は血・太陽・炎の色であり生命力を象徴する神聖な色だったと説明されます。また、魔除けや遺骸の防腐剤として塗られたのではないかという説もあります。
埴輪群は大洪水で流されてきたといった可能性はないですか?
洪水であれば、粗い砂や泥(粘土)の堆積が見られるはずですが確認されていないこと、円筒埴輪の根元の部分が立ったまま埋まっていた例があることから、これらの埴輪は流されてきたものではなく、発見された場所に立て並べられていたものと考えられます。
玉作工房の特長を教えてください。
第一に、現在我が国で確認されている最古級の玉作工房(弥生時代前期中ごろ:約2600年前)である点が特筆されます。玉の作り方の特徴としては、緑色凝灰岩という軟らかい石材を使っていること、直接的な打撃を加えて素材となる石材を割り取っていること、玉髄(ぎょくずい)という石の錐で穴を開けていること等があげられます。碧玉(へきぎょく)という硬い石材に溝を施して素材を割り取り、安山岩製の石針で穴を開ける弥生時代中期以降の方法よりも古い様相を示しており、「長瀬高浜技法」と呼ばれています。
大型建物SB40を中心に行われた祭祀とは、どのような、何に対する祭祀を行ったのでしょうか?
何に対する祭祀であったのかを考古学的に明らかにすることはたいへん難しいのですが、長瀬高浜遺跡からは文様を持たない小型の青銅鏡や、「雛形鉄器」と呼ばれる実用に耐えない小型の剣先形・ナイフ形等の鉄器が出土しており、こうした品々を神に捧げる儀礼が行われたことは推測できます。
弥生時代前期・中期・後期、古墳時代前期・中期・後期などの年代の推定(特定)はどのような方法で行われますか?
現代であれば、車やパソコン、携帯電話を見ればそれがいつごろのものかわかります。同じように、昔の人々が使っていたいろいろな道具、建物やお墓等も時代によって形や作り方が違いますので、その変化を基に「弥生時代前期」や「古墳時代後期」等の時期を判断します。特に土器はたいていの遺跡から数多く出土することや、形態や作り方、文様が細かく変化することから、時代を測る「ものさし」として適しています。
米子市博労町(ばくろうまち)遺跡もシロスナで埋まったとのことですが、大規模な自然災害は何でしょうか?大陸の砂でしょうか。
長瀬高浜遺跡や博労町遺跡の室町時代頃の畠がシロスナで埋まったのは、気候の寒冷化に伴う砂丘化現象が原因と考えられます。寒冷化すると海面が低下して海岸の砂浜が広がるため、風で運ばれてくる砂の量が増えて砂丘が発達することになります。特に山陰地方では室町時代頃から、砂鉄を含む土を水路に流して「たたら製鉄」に使用する砂鉄を採取する「鉄穴(かんな)流し」が盛んに行われるようになり、大量の土砂が下流に流されました。畠を埋めたのはこうした海岸部に堆積した砂だったと考えられます。
長瀬高浜の集落には、出土した家形埴輪の形の建物があったと考えられるのかどうか。
長瀬高浜遺跡から出土した家形埴輪は、首長の居館を模したものと考えられています。遺跡からは古墳時代前期(3世紀後半~4世紀前半頃)の大型の掘立柱建物跡も複数棟見つかっています。家形埴輪(古墳時代中期、5世紀前半頃)とは時期が異なりますし、また柱の穴しか見つかっていないのでどのような建物だったかを復元するのは難しいのですが、長瀬高浜遺跡に有力首長の居館があった可能性は充分に考えられます。
衣類関係は出ていないか?
当時の人々が着ていた衣類そのものは腐朽してしまい見つかっていませんが、糸に撚り(より)をかけるときに用いる「紡錘車」と呼ばれる円板状の道具が複数見つかっていますので、集落内で布が織られていた可能性はあります。また、長瀬高浜1号墳から出土した鉄刀には、鞘に巻かれた布や組紐が残っています。
遺跡発見は直接的には天神浄化センターの建設だが、それ以前には「遺跡」ではないかという情報はなかったのか?
長瀬高浜遺跡は、1974(昭和49)年に鳥取県教育委員会による現地踏査で発見されましたが、この踏査は、国道9号線北条バイパス建設に先立ち、路線予定地の遺跡の有無を確認するための踏査でした。その後、パイパス路線予定地の南側にあたる天神浄化センター建設予定地にも遺跡が広がっていることが判明し、1977(昭和52)年に最初の発掘調査が行われました。したがって、天神浄化センター予定地での発掘調査の前に遺跡の存在は確認されていたことになります。
砂丘地に突然大きな集落ができるのはおかしい。貿易港として栄えたからではないか。
当時の内海の入口に位置することや、貴重な鉄素材が豊富であったことなどから、長瀬高浜遺跡が日本海交易の拠点(貿易港)として栄えたことは確かだと考えられます。弥生時代後期の遺構はほとんど見つかっていないにも関わらず、続く古墳時代になって急に繁栄したことから、集落成立の背景に政治的な事情があったと考える説もあります。
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(公財)鳥取県教育文化財団調査室が、長瀬高浜遺跡の発掘調査成果を発信しています。
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