v align="center">図1子持ち勾玉実測図
(『山陰の前期古墳文化の研究1』による)


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近く標高50メートルの地点にある(口絵写真を参照)。
 全長110メートルの前方後円墳で、後円部の径70メートル、前方部が西南西に向く。山陰地方では最大規模の古墳である。墳形は、大きな後円部に対し、前方部と接続するくびれ部で低く細く締まっているが、前方部先端は大きく高く広がり、古墳の築造が最も発達し大型化する5世紀の特徴をよく表している。後円部の南側斜面は山林であり、そのほかはすべて開墾されて、ナシやウメが植栽されている。樹園の所々に、葺石に使ったと思われる人頭大の石が積み上げられている。円筒埴輪の細片も散見される。
 過去数度にわたり、副葬品目当ての盗掘が行われた模様で、そのために後円部にくぼみがあった。本格的な発掘調査は、昭和41年、米子の山陰考古学研究所(所長・大村俊夫)の手によって行われている。同所の調査報告によると、後円部墳丘中央部に竪穴式石室と思われる第一主体と、その南側に箱式棺の第二主体が認められた。詳細は前編「原始・古代」の章を参照されたい。

図1子持ち勾玉実測図
(『山陰の前期古墳文化の研究1』による)


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