第3編 信仰と文化財 第1章 宗教法人 第3節 寺院 7 九品山大伝寺
平安時代の開創 万寿元年(1024)の開創で、大和の当麻(たいま)寺から中将姫の遺跡を分移している。そのとき当麻寺の練り供養の儀式でお迎えして、引き移したので、当地を引地というと伝えられている。中将姫は、当麻寺・信濃の善光寺・当寺九品山に祀られている。 南条伯耆守貞宗が羽衣石に築城したあと、応安4年(1371)に当寺を再興した。その後、2代城主・南条宮内少輔景(ゆうかげ)宗が応永15年(1408)3月、羽衣石に景宗寺を建立した。その時九品山も修理し、景宗寺の住職に兼任させた。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、羽衣石城が廃城になった時、景宗寺・大伝寺いずれも焼失し、記録なども灰となった。当寺、景宗寺住職・仙長は出雲大社の社人・杉谷佐太夫(さたゆう)の家に行っていたが、この事を聞き、急いで帰り、長和田の草庵に閉じこもり、大伝寺の再興をはかり、慶長10年(1605)の秋、成就した。この時、「二十五菩薩」の面もつくり、練供養を行ったと伝えられる。しかし、間もなく本堂などを焼失し、前記の面も過半数を焼失した。享保年間に至って、長伝寺住職・嶺(れい)堂によって再建したという(以上、当時の伝承と『伯耆民談記』を参考とした)。 今の本堂は、倉吉の行蔵院を買い受けて、明治10年に建立したものである。九品(ほん)山の会(え)式は、旧暦3月14日の日暮れから15日にわたって行われ、遠近の参拝者でにぎわう。古来から河村の三大会式(九品山・三徳山・一ノ宮)の一つと称されている。15日の午後は、流勧請(ながれかんじょう)の供養に続き、中将姫の練供養(浄土来迎会)が修行される。大伝寺は、伯耆27番札所となっている。
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