第3編 信仰と文化財 第1章 宗教法人 第2節 神社・教団 1 倭文神社(伯耆一ノ宮) 沿革 当社の創建年代は不明であるが、創建当時、当地方の主産業が倭文(しずおり)の織物であったので、織物の祖神・建葉槌命と共に、当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神とした。他の5柱の神は大国主命のお子神か、あるいは関係の深い神である。社名の倭文(しとり)は、しずおりからきている。 延喜22年(922)の『延喜式神名帳』に当社は伯耆の筆頭に書かれている。神階は承和4年(837)従五位下、斉衡3年(856)従五位上、天慶3年(940)従三位から正三位に進んだ。 神社には年代不明の「正一位伯州一宮大明神」と刻んだ木製の古額が現存する。勅額(天皇直筆の額)と伝えられる。正一位を授与された時期があったと思われる。また、境内に勅使屋敷と呼ばれる屋敷跡も残っており、勅使が参向していたことを物語っている。一ノ宮は一国に一社が設けられた。当社は伯耆国の一ノ宮である。ちなみに、因幡国の一ノ宮は岩美郡国府町の宇倍神社である。 平安時代、神仏習合説から、当社にも天台宗に属する神宮寺が建立されたが、戦国時代に入り、武将に社領を没収され、四散した。 戦国時代に戦乱の影響を受けるまでは、千石の御朱印地を領し、社殿も広大であったと伝えられる。三徳山の棟礼に、三徳山の鎮守・蔵王殿(投入堂)の檜皮葺(ひわだぶき)の屋根が大破したので、永和元年(1375)、伯耆一ノ宮に住居する作州・当国一ノ宮兼帯の大工が、屋根替えをしたことが記されており、2社専属の宮大工の住居していたことが知られる(『鳥取県史2中世』資料編参照)。 当社の社殿・社領は戦国時代の戦乱の度に荒廃したが、有力武将の寄進を受けて存続した。なかでも、天文23年(1554)の尼子晴久による社殿の造営と神領70石の寄進、元亀元年(1570)の羽衣石城・南条宗勝による神領の復旧がよく知られる。このほか、南条元続が当社の荒廃を嘆いて、神領を収め、新地を寄せ、代官を派遣して社領の監査を厳重にさせたといわれている。社伝によると、その代官は貝屋(勘屋ともいう)・青木の両人であった。一ノ宮の氏子である長江の古老によれば、「正月さんがごうざった。勘屋の前までごうざった。削りばしに団子刺いて食い食いごうざった」という歌が伝えられている。貝屋は、長江に住んでいたという。また、社伝によると、天正年間、武将・吉川元春が羽紫秀吉を迎え討つべく、橋津の馬ノ山に陣を敷いた際、その子元長が一ノ宮を兵営にしようとして兵を入れたが、不吉な霊夢を感じて断念し、馬ノ山に退いたという。 慶長5年(1600)、火災により社殿を焼失した。寛永2年(1625)に再建した際、藩主池田家から「白銀10枚」を寄せられ、同10年(1633)には社領4石9斗2升を寄進された。このように、池田家の崇敬が厚く、同家の祈願所として年間9回の祭典が執行された。 また、祭日の神輿(しんよ)(おみこし)渡御(とぎょ)の行事は、天正年間の戦乱により中絶していたが、延享2年(1745)に再興した。祭日には、小鹿谷陣屋の主で、鳥取藩の家老を務めた和田氏(以下、この章では藩老和田氏と呼ぶ)から警護のために、鉄砲足軽6人を付けられている。 現在の本殿は流れ造り(注)で、文化15年(1818)の建築と伝えられる。明治5年2月、県社に列し、昭和に入って拝殿・社務所などを改築した。昭和14年11月1日、国幣小社に昇格した。 (注) 流れ造りは神社の建築様式の一つ。前方の屋根が、後方に比較して長く伸び、屋根の曲線が美しい。この形式は平安期に完成した。 毎年5月1日の例祭は、「一ノ宮さん」として親しまれる近郊最大の祭典である。神輿渡御には稚児たちも参加してにぎわう。本殿裏にあった「はねり」は、樹齢600年に及ぶ御神木で、10余種類の植物が寄生し、俗に乳神さんともいわれていた。町の天然記念物に指定されていたが、木の内部が朽ちて、惜しくも昭和53年に倒れてしまった。古来一ノ宮の七弁天と称して、付近の水辺7か所に弁天さんが祀(まつ)られていたといい、宮戸弁天はその一つである。七弁天のうち小祠が残っているのは、この宮戸弁天だけである。なお、この宮戸弁天のある辺りは、下照姫命が魚釣りを楽しまれた所と伝えられている。また、かつて一ノ宮境内にも小さな池があり、弁天が祀られていたが、境内整備の際、池を埋めたので廃絶したと伝えられる。弁天は弁才天の略で、七福神の一つである。 о国の史跡「伯耆一ノ宮経塚」(神社所有の山林中) | |
![]() 倭文神社 |
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![]() 倭文神社社殿の彫刻 |
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![]() 伯耆一ノ宮経塚 |
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