第3編 信仰と文化財 第1章 宗教法人 第2節 神社・教団 1 倭文神社(伯耆一ノ宮)
由緒 社伝によると、大国主命の娘、下照姫命が出雲から羽合町宇野と泊村宇谷の中間、字「仮屋崎」(宇谷地内、国道9号線沿い)に海路着船されたという。今でも「お腰掛岩」・「お舟岩」・「化粧水」などと呼び名が伝わっている。命は今の社地に住居を定め、本殿の東側から北側沿いの一段下(今は竹やぶ)に従者が居住した。その従者とは、現・宮内の福井、岩本、寺地の三家の先祖であったと伝承され、少し遅れて手嶋家の先祖が、出雲から命の日常品を持参して来たといわれる。これらの従者の家族が年と共に増加し、現在の宮内の地を開いて村落を形成したという。当時の飲料水は、本殿裏の下方から湧(わ)き出る水を使用していた。この泉は今もあり、「杉尾の神水」と呼んでいる。 命は、宮内で死去されるまで、安産の指導に努力され、以来安産の守護神として崇敬されている。現在、参道横に安産岩と呼ばれる岩がある。昔、難産に苦しむ婦人が願をかけ、満願の日、夢枕に下照姫命の姿を見て、参拝の帰途、安産岩の傍らで、たやすく出産したといい、それ以来安産岩と称するようになったという。 また、下照姫命は、農業開発や医療にも尽くされたと伝えられる。故・谷田亀寿は『宇野村郷土誌』の中で、大要次のように紹介している。すなわち、大同3年(808)の『大同類聚方』(注)に「河村郡の倭文神社に仕える神主の家に伝わる暑気あたり、小便止め、頭痛、熱で口が乾くときなどの利薬は、下照姫命から伝えられたもの」とあるという。なお谷田は、倭文神社の名が現れる最古の文献は、この『大同類聚方』であると指摘している。 (注) 『大同類聚方』は、平城天皇が安倍真直、出雲広貞らに命じて、収録させた100巻にも及ぶ医書である。
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