第2編 歴史
第4章 近代・現代
第10節 社会教育
2 社会教育団体
(1) 青年団と処女会
戦後の青年団
戦後は、敗戦による疲弊と虚脱と混迷の中から、新しい民主的文化国家の建設を標榜(ぼう)して、各地区に自発的な青年の集団が生まれ、自主的な文化活動を展開した。これには戦地から復員してきた若者も加わって団員の数は急増し、活発であった。その活動の一例は俗に青年芝居と呼ばれた演芸会であった。この青年芝居は全国に蔓(まん)延し、文化即青年芝居と識者をして言わしめたほどの盛況ぶりであった。当地においても、農閑期、盛んに演芸会が開かれたようである。
当時の東郷地区での青年団活動の模様を、西田太一(別所)は次のように述べている。
昭和20年9月ごろから、国内外各地から復員してきた若者があふれ始め、老人と女、子どもだけの疲れ切った農村がにわかに活気に満ちてきた。
国家権力に制圧されていた若者は、敗戦という屈辱感をはね飛ばすように、その解放されたエネルギーを農村復興に向けた。その手はじめが青年団づくりであった。毎晩のように会合を重ね、20年11月には青年団(男子のみ)の結成をみた。続いて翌21年7月に男女合体の青年団が組織された。当時はまだ「男女7歳にして席を同じうせず」の社会通念が根強く残っており、周囲から厳しい批判を浴びたものであった。
その当時の青年団には、3つの特色があったように思う。第1は、団員のほとんどが軍隊生活や戦争の体験者で、徹底した集団生活の教育、訓練を受けており、団体活動をいとわなかったこと。第2は、修身教育の影響から道義、徳目の思想が浸透し、公共、社会のための奉仕に何ら反発や抵抗を感じなかったこと。第3は、青年団の資金はすべて支部のきょ出金で賄われ、村役場などからの補助金は皆無であったことである。
このような状況のなかで、支部活動が資金の調達と団員の交流をねらいとして、競争のように起こってきた。燃料供出のための割木の伐採・結束の請け負い、炭焼きとその販売などを農作業の合間に行った。中でも、資金づくりの一番の楽しみは青年芝居であった。部落単位に青年が演ずる演芸会が開かれ、村人も家を留守にして、2日、3日と演じられる芝居や踊りに打ち興じた。老いも若きも一緒になって楽しみ、戦時下からのつらく暗い生活をしばし忘れたものであった。
青年団の年中行事は、農作業の合間のバレーボール大会、盆踊り大会、運動会、村祭り、農産物品評会の協力、正月の資金づくり演芸会などであった。
青年団の活動も次第に充実し、団報も発行されるようになった。昭和22年には、東郷地区の団員は200人近くに達していた。
このように戦後の青年団は、軍隊の解散により復員した若者と、女子青年を加えて大所帯であり、大きな勢力をもっていた。村内の大きな行事のほとんどは、青年団が運営の中心的な役割を担っていたといわれる。
なお、東郷町の誕生に伴って、昭和28年には町域内の4地区の青年団が「東郷町青年団連絡協議会」を結成した。翌29年には「東郷町連合青年団」と改称している。現在の東郷町青年団として一本化されたのは、昭和30年のことであった。
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