第2編  歴史
第4章  近代・現代
第10節 社会教育
 2   社会教育団体
(1)  青年団と処女会

処女会の誕生と活動

 青年男子の集まりである青年会に対して、未婚の青年女子の集まりを処女会と呼んだ。町域内の各村処女会の結成時期については、花見村の場合が知られる。
 花見村に処女会が設立されたのは、男子の青年団と同様、大正6年7月19日であった(前掲『鳥取県郷土調査第23巻』)。会長には小学校長を充てている。各部落に支部長を置き、次のような事業をしている。
 1月=総会、3月=5社参拝、4月=見学旅行、7月=総会、8月=海水浴、10月=運動会、12月=講習会
 また、昭和11年度の経費は、会員の拠出金11円80銭、村補助20円、共同作業による収入6円50銭、預金利子3円、合計41円30銭と記録する。
 町域内の他村においても、男子の青年会あるいは青年団の発足に刺激されて、漸次処女会が誕生したものと考えられる。
 中国大陸での戦火が拡大し始めた昭和10年代の前半、松崎村の処女会員は常に紺色の会服を着用し、戦地への慰問袋作りに精を出したという。袋の中には、梅干し、ラッキョウ、慰問文、糸、針、包帯、タオル、干し菓子などが詰められた。また、隣村の処女会員と交流したり、三徳山や鳥取、大山などに研修に出掛けることもあった。敬老会には、青年会と合同で演芸などを披露したという(松崎・米田さな江談)。
 各村の処女会がいつごろまで存続したかは定かでない。戦局が進むにつれて、次項に述べる女子青年団と改められた。