第二編 歴史 第四章 近代・現代 第九節 学校教育 二 各学校の沿革 (六) 東郷中学校 ○戦後の教育改革に伴って東郷松崎組合村と舎人村の学校組合立東郷中学校が誕生し、昭和二十二年四月二十九日、東郷小学校の講堂で開校式を行った。全校生徒が登校したのは、翌五月二日である。しかし、当時の校舎は東郷実科専修学校の四教室と、東郷小学校の二教室を借用していた。学級編成は、一年生一三九人(うち男子六九人)が三学級、二年生一〇七人(同四七人)が二学級、三年生三一人(同一四人)が一学級であった。このうち二年生が東郷小学校の教室に通った。 ○同年六月一日、校章を制定した。本校の教育理念であるHEAD(知育)・HEART(徳育)・HEALTH(体育)の頭文字Hを、ペンの形に図案化したものである。中央の「中」は帆をかたどり、満風を受けて船出する進取の校風を表している。 なお、同校の開校当時は、備品などの施設はまだ十分でなかったのであろう。同校刊行の『創立二十年史』によると、同年六月、二年生男子三〇人が、倉吉から机を運搬したという。また、当時教室の黒板に「東郷作業中学校」と落書きをした者があったという。 校舎や校庭の整備などに、生徒が連日のように駆り出されたことへの抗議の意志表示であろう。こうした奉仕作業で、同年の秋ごろ、かつての芋畑がグラウンドに生まれ変わったのである。 ○同年七月、父母と先生の会(PTA)が結成された。 ○同二十三年四月二十九日、開校記念の校内マラソン大会、職員・生徒のバレーボール大会を開催した。 ○同年八月、新校舎(北校舎)が完成した。町役場所蔵の「財産台帳」によると、木造瓦葺二階建てで、延べ床面積は約八二〇平方メートルあった。これに、西側向きの玄関などが付属した。当時一〇学級(一年四学級・二年三学級・三年三学級)があったが、すべて同校に収容できた。校舎の完成を記念して、展覧会や体育会を実施している。なお、体育館はまだなかったため、卒業式や学芸会などの行事は、東郷・舎人小学校を借りて開催している。この年の秋には、県民体育大会で同校の男子バレーボール部が優勝し、県下一に輝いた。 ○同二十四年二月、校歌の作詞者(山本嘉将)、作曲者(牧野一郎)を招いて発表会を行った。 校歌 一 さみどりに もゆる田の面〈おも〉 うるわしく みのる岡畑 水の辺の 幸ある郷〈さと〉に いで湯の煙 しずかにこめて 平和の光 満てり 二 新たなる 文化おこせと わたる日の かげをたたえて 澄む池の ゆたけく清き 理想に生きる 学びの園に 真理の泉 つきず 三 真心に まなびつとめて たくましく 常にいそしみ 打ちたてん みくにの力 ちかいも固き 名誉にかけし 三つのH 永久に ○同年四月、奈良・京阪方面に第一回の修学旅行を行った。三泊四日であった。 ○同年七月、希望者一六名が教員二人に引率され、大山登山を行った。 ○同年十二月、実験学校研究発表会を開催した。カリキュラムの編成について、公開授業と研究発表がなされた。 ○同二十五年十一月、新校舎の南隣に木造スレート葺平屋建ての体育館(約六五〇平方メートル)が完成した(前掲「財産台帳」)。工費は二三〇万円であった。 ○同二十六年三月、東郷松崎町が誕生したのに伴って、東郷松崎町・舎人村学校組合立東郷中学校と改称した。 ○同年十月、実験学校研究発表会を開催した。全校体育の実践について、公開授業と研究発表がなされた。 ○同二十七年七月、体育館の東側に木造スレート葺二階建ての教室棟(南校舎)が完成した。建物面積は約三六〇平方メートルであった(前掲「財産台帳」)。 〔校長〕(1)浅村忠晴(昭和二二年四月〜) (2)三谷宗人(同二六年四月〜) |
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