第二編 歴史
第四章 近代・現代
第九節 学校教育
 二  各学校の沿革
(二) 松崎小学校

松崎小学校
 ○明治十五年九月、松崎小学校が河村郡第八番学区の本校とされた。学区は、松崎宿と旧・東郷村の全域であった。小鹿谷・田畑・川上に分校が置かれた。
 ○同十六年六月、小鹿谷分校が本校に復し、これに田畑分校が属した。川上分校は、従来のまま松崎小学校の分校であった。川上分校には、翌十七年、高辻・方面村がその校区内に編入された。
 ○同十九年五月、松崎小学校の校舎が新築された(寄付金感謝状による)。新築場所は、松崎三区(仲町)の四三六番地と推定される。現在の鷲見久義宅から長谷川康則宅を中心とする一帯である。
 ○同二十年四月一日、松崎尋常小学校と改称した(推定)。この時、藤津・宮内村が同校区内に編入された(同二十三年七月まで)。このころの学区番号は、漆原小学校と同様、河村郡第二区であった(「舎人小沿革史」)。
 ○同二十二年六月・七月のころ、簡易科が設けられた。単なる簡易科の併置か、あるいは松崎簡易小学校の併設であったかは不明である。
 ○同二十五年六月二十八日、改正小学校令によって開校式を行った。当日の学務委員の祝辞によると、前年の二十四年、校舎の造(増)築を行っていることが知られる。桜小学校が所蔵する「校舎図」によると、明治二十九年当時は、瓦葺〈かわらぶき〉の二階建てで、校舎の建坪は約五八坪であった。一階と二階に教室(それぞれ三×四間、三×七間)を設け、別に二×五間の運動場、一×二間の職員室などもあった。校地面積は、一三六坪(推定一五・四×八・八間)と記されている。
 ○同二十九年五月、修業年限二年の補習科を設置した。入学者は男子六人、女子三人であった。
 ○同三十五年七月、校舎の増改築が完成した。併せて校地も拡張され、二〇×一〇・六(平均)間となった。新校舎は、一部二階建てで、建坪の延べ数は約六四坪であった。一階に五×四間の教室のほか、屋内体操場二二坪、二階に御真影室九坪、宿直室六坪などが設けられた。採光窓の面積を床面積の六分の一以上とし、天井は白杉の板を用い、壁はすべて淡青色とするなど、内部の明るさなどにも工夫が施された。玄関の前には、一〇〇坪の屋外体操場もつくられた。
 建設費用は、雑費を含めて六四二円であった。これに校地の購入費八五円などが加わったが、これらの経費は村債や地元の寄付金で賄われた。
 このほか、同年には補修科の入学者がなかった。これ以後、その記録が見えないことから、補修科は廃止されたと推定される。
 ○同四十年、校旗を新調し、校紋(校章)を制定した。校紋は、藩政時代の松崎の領主・和田氏の家紋であったという。
 ○同四十四年五月、尋常科五、六年生児童の東郷小学校への委託通学が認可された。
 ○大正九年九月、松崎三区から同二区(現在の松崎幼稚園がある一帯)に校地を移転し、新校舎を建築した。町役場所蔵の「財産台帳」によると、木造瓦葺二階建てで、一三×四・五間の広さであった。校舎の移転と同時に、東郷小学校に委託していた五・六年生の児童を帰している。
 ○同年九月、門柱(二本)が建立された。その「質実剛健」の文字は、当時の陸軍少将・津川謙光(倉吉市出身)の揮ごうである(松崎・立木惇三所蔵の資料による)。津川は、青森歩兵第五連隊の雪中行軍隊が明治三十五年一月、八甲田山で遭難した当時の連隊長として知られる。この校門は、現在桜小学校に移されている。
 ○同十五年五月、校舎の東隣に講堂を新築した。前掲「財産台帳」によると、木造瓦葺の平屋建てで、一〇×六間の広さであった。
 ○同年七月、松崎青年訓練所が併置され、開所・入所式が行われた。
 ○昭和七年四月、校庭の一角に奉安殿が完成した(「立木柳蔵日記」)。
 ○同十年七月、松埼青年学校が併置された。
 ○同十二年八月、校章が制定された。
 ○同十六年四月一日、松崎国民学校と改称した。同年度に高等科を併設している。
 ○同十九年四月、講堂の北東寄りに増築された校舎の使用が始まった。四×一二間の二階建てで、養蚕場に使われていた建物であったという。
 ○同二十二年四月一日、松崎小学校と改称した。
 ○同二十六年十二月、十九年建設の校舎を解体し、六教室を備えた新校舎を建設した。工事費は二五三万円であった。前掲「財産台帳」によると、木造瓦葺二階建て(建坪約八四坪)であった。
 〔校長〕@富山喜平(学長・明治六年三月〜同一七年二月)A矢口音蔵(同三四年〜)B池田豊太郎(同三五年〜)C渡辺春海(同三九年一二月〜)D鈴木一三(大正一一年四月〜)E西田春慶(昭和二年四月〜)F藤井貞(同一〇年四月〜)G広富税(同一三年四月〜)H武信重雄(同一八年四月〜)I伊東猪蔵(同二一年〜)J豊嶋吉十郎(同二一年〜)K山田嘉幸(同二四年〜)
   
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