第二編 歴史
第四章 近代・現代
第九節 学校教育
 一  教育制度の変遷と町内の概観
(五) 昭和後期

東郷中学校の校区決定と開校
 当地での新学制実施準備委員協議会は、設置期限日の昭和二十二年三月十八日に結成され、同月二十四日に会合が開かれた。この結果、@校名は学校組合立東郷中学校とする、A開校事務所は東郷村松崎村組合役場に置く、B校舎の建築敷地は久見の東郷実科専修学校地とする、C仮校舎として、東郷小学校・東郷実科専修学校を利用する、などと決定された。しかし、主要問題であった中学校の校区は、県の試案と相違して、花見村を除く東郷・松崎・舎人の三村と決定した。最終的に花見村は、上井・西郷・上北条と共に、学校組合立河北中学校の校区とされたのである。
 同協議会の構成メンバーは、「東郷中沿革史」によると、山桝忠興・東郷村松崎村組合村長ほか二一人であったという。花見村の関係者は含まれていなかった。花見村が河北中学校の校区とされた背景には、進歩的な考えを持っていた当時の同村村長・神波勝衛が、花見村の生徒は上井地区を中心とする都市部の学校で教育を受けさせるべきである、と主張したことと、これに同村の父母の多くが賛同したことによる、といわれる。もともと同村では、花見尋常小学校の卒業生が河北高等小学校に通っていたり、また、前述したように西郷・日下・上北条などと組合立の河北実業補修学校を設立したりするなど、上井地区とのつながりが密接な土地柄であった。こうした長年の愛着や通学上の利便さが手伝って、花見村だけが分離されたと思われる。
 このような経過をたどって、昭和二十二年四月に、東郷中学校が誕生した。初代校長には同月一日付けで浅村忠晴が発令され、続いて八人の教職員も任命された。そして同月二十九日、東郷小学校の講堂で開校式が挙行され、新制中学校としての第一歩を踏み出したのである。
 なお、町内の中学生全員が東郷中学校に通学するようになったのは、昭和五十三年四月からである。
   
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