第二編 歴史
第四章 近代・現代
第九節 学校教育
 一  教育制度の変遷と町内の概観
(四) 昭和前期

青年学校の創設
 昭和六年九月の満州事変ぼっ発で、我が国は太平洋戦争へと続く暗黒の時代に突入していった。
 翌七年に満州国を創建し、さらに八年には国際連盟を脱退し、国際的に孤立無援となった。そのため、国民の総意を結集して、攻勢・防御の体制を整えるべく、同十年四月一日青年学校令を公布し、新しい学校体制をつくり上げた(『鳥取県教育史』)。
 青年学校とは、前述した従来の青年訓練所と実業補習学校を統合したものである。その目的は、実業に従事する青年男女を教育し、国家の役に立つ人材を養成することにあった。従来の制度では、一人で青年訓練所と実業補習学校の二重学籍を持つ者が多く、両者の統合の必要性は早くから指摘されていたという(『同書』)。
 修業年限は、普通科二年(尋常小学校卒業者を入れる)、本科男子五年・女子三年(高等小学校卒業者及び普通科修了者を入れる)、研究科一年以上とされた。また、本科の教科は修身公民科・普通学科に、男子は職業科と教練科を、女子には職業家庭科と体操科が加えられた。青年学校の授業は週に二回ないし三回とされ、勤労青年の授業を受けた時間は、仕事に就いた時間とみなされた。男子の訓練は、青年訓練所と同様に在郷軍人が指導した。
 町内では、昭和十年四月に舎人村青年学校、同七月に花見村青年学校と、東郷村・松崎村組合の東郷青年学校、松崎青年学校が設けられている。校舎は、それぞれの小学校が使われた。訓練所時代と同様、郡青年学校の連合演習などに参加したりしている。また、松崎青年学校では昭和十四年、現・桜小学校のある字「城山」に報国農場を設置している。
 なお、『日南町/自然/文化/』によると、県内では青年訓練所と実業補習学校の二重学籍の解消のため、昭和五年十一月、両者を統合し農業公民学校又は公民学校と改称するよう指示されたとする。町内では、舎人村と花見村が翌六年の四月と七月に、それぞれ農業公民学校と改称した。これが後に、青年学校と名を変えたものである。松崎・東郷両村の場合は、農業公民学校と称した記録は見えない。また、花見村の場合は、昭和五年四月一日、日下・西郷・上北条・上灘村とともに組合立の河北実業専修学校を設立している。現在の県立倉吉産業高校の前身である(『倉吉市史』)。


舎人村青年学校の印影
(白石区有文書によった。)


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