第二編 歴史
第四章 近代・現代
第九節 学校教育
 一  教育制度の変遷と町内の概観
(二) 明治時代

就学奨励の努力
 前述したように、就学率の向上は、授業料の徴収廃止など、明治三十三年の改正小学校令に負うところが大きいが、その一方で、学校長などによる就学の督促の努力があったことも見逃せない。
 明治二十八年十二月、東郷尋常小学校では、当時の校長・廣谷市蔵が各部落に出向いて父兄を招集し、子供の教育の必要性を説いている。また、同年度から毎月一回、同校で親和会を開催した。「父兄ヲシテ子弟ノ教養ニ便ナラシメ且〈かつ〉学校トノ連絡ヲ通セン為メ」であった(「東郷小沿革史」)。
 舎人尋常小学校でも、同三十二年四月から、校長・保田堅治や役場職員が就学の督促のため、各部落に出向いている。特に女子の就学については、「大阪紡績ニテノ無学文盲ナル女工ノ惨事等ヲ引キテ講話ノ材料トシ」、学問の必要性を説いたという(「舎人小沿革史」)。
 このほか、同三十三年十二月から翌三月まで、東郷・花見・舎人の各尋常小学校では、監督官庁の指示によって、学齢児童の未就学者を対象に、特別教授を行っている(各小学校沿革史)。このうち東郷校の場合、特別教授は毎日午後二時間ずつとし、出席者は四三人(うち女子四〇人)であったと記録されている。未就学者の大半が女子であったことが分かる。また、舎人校の場合、授業は毎週月・木曜日の二時間、入学生三八人と記録されている。
   
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