第二編 歴史 第四章 近代・現代 第九節 学校教育 一 教育制度の変遷と町内の概観 (二) 明治時代 改正小学校令と就学率の向上 町内の各校沿革史から、明治二十〜四十年代の就学率を紹介する。花見校には、同種の記録は見えない。 まず「舎人小沿革史」によると、明治二十三年七月の舎人簡易小学校創立当時、学齢児童三〇七人に対して就学者一〇〇人(うち男子八九人)で、就学率は三二・六パーセントであった。また、「松崎小沿革史」には、同二十九年六月現在の本科(尋常科)在校生八七人(うち男子四九人)と記録されている。学齢児童数は前年度末の数値であるが、一九〇人(うち男子九二人)とあるから、二十九年当時の同校の就学率はおおよそ男子五三パーセント、女子三九パーセント、全体で四六パーセント前後と推定できる。就学義務を明記した小学校令の公布から約一〇年経過しているが、就学率は五〇パーセントに満たない状態であった。明治二十年代の記録は、これ以外には見られない。 しかし、明治三十三年に小学校令が改正公布され、修了や卒業は試験によらず、平素の学業によって判定すること、尋常科の授業料は徴収しないこと、などとされた(実施は同三十四年度から)ため、にわかに就学率が高まってきた。この背景には、明治二十七、八年の日清戦争の勝利を契機に、民族主義的な自覚が国民の間で高揚し、富国強兵のため、大いに教育を振興しようという機運の高まりがあったとされる。 東郷・松崎両小学校の尋常科就学率を表75に掲げた(明治三十四〜四十四年度)。両校とも、男女平均で八○パーセントを超える。松崎校の場合は、明治二十九年から三十六年までの七年間で、二倍以上も増えたことになる。 このような児童数の増加で、校舎が手狭になる。東郷・舎人両尋常小学校は明治三十四年、松崎尋常小学校は同三十五年に、それぞれ校舎の新・増築工事を実施している。 なお、明治四十年三月には、小学校令の一部改正が行われ、尋常小学校の修業年限が四年から六年に、高等小学校は四年から二年に変更された。これが、いわゆる義務年限の延長である。町内では、四十一年度から実施されている。当時は日露戦争が終わったころで、国民の教育を進めて、世界の水準にまで高めようという時代的な要請があった、とされている。この義務年限の延長で児童数が増加したため、舎人校では同四十一年、花見校では翌四十二年に、それぞれ校舎を増築している。また、松崎校の場合は、同四十四年五月に、同校の五・六年生の児童を、東郷校に委託通学させることが認可されている。この委託通学は、松崎校が新築移転する大正九年まで続いた。 |
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表75 東郷・松崎尋常小学校の学齢児童就学率
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