第二編 歴史 第四章 近代・現代 第九節 学校教育 一 教育制度の変遷と町内の概観 (二) 明治時代 学校の統合 『鳥取県教育史』によると、明治十五年から県内の学校数が、同十四年以前に比べて半減し、一校当たりの生徒数が二倍に増えた。これは、県の学区改正によって学校が統合され、分校への格下げが行われたためである。改正教育令によって、各町村に学校の設置が要求されたが、統合によって生徒数の規模を拡大し、学校経営の効率化をねらったものであろう。ただし、次に紹介する本校がどのような理由で選定されたのか、また、本校と分校の授業内容の相違などは不明である。 「鳥取県教育史・資料制度編」(県立鳥取図書館所蔵)から、明治十五年九月に改正された町内の学区区域と校名を示す。 河村郡 第二番学区 本校 漆原小学校(校区=漆原・北福・方地村) 分校 藤津分校(校区=藤津・白石・野方・宮内村) 第七番学区 本校 長和田小学校(校区=長和田・野花・羽衣石・埴見・佐美村) 分校 長江分校(校区=長江・門田村) 第八番学区 本校 松崎小学校(校区=松崎宿、中興寺・久見村) 分校 小鹿谷分校(校区=小鹿谷・高辻・方面・別所・国信・引地村) 分校 田畑分校(校区=田畑村) 分校 川上分校(校区=川上村) このうち、第八番学区では翌十六年、小鹿谷分校が本校に昇格した。田畑分校がこれに付属した。川上分校は、依然として松崎小学校の分校であった。 なお、「舎人小沿革史」には、漆原本校・藤津分校の決定は明治十四年度の項に記録されている。 |
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