第二編 歴史 第四章 近代・現代 第九節 学校教育 一 教育制度の変遷と町内の概観 (二) 明治時代 学区取締 学校設立のことから、その維持、就学の督励まで、各学区の学事を取り扱うために学区取締が置かれたが、県内では各区の戸長に兼務させていた(『鳥取県史』)。『鳥取県教育史』よると、当初の定員は、第二中学区の場合、三九人とされた。前述したように第二中学区は三九の小学区があったから、小学区ごとに学区取締一人を置いたとみられる。当時の小学区とは、すなわち行政上の区であった。 尾崎岩雄著『泊村の歴史稿』によると、同村泊宿の三枝礼二(後の県会議員)が、明治六年六月、第二中学区の学区取締に任命された。泊宿は、町域内の福永・北方・漆原・方地村とともに第五一区に属していた。当時の同区戸長であった(推定)三枝が、第五一小学区担当の学区取締になったと考えられる。同時期における町域内の他地区の学区取締は記録が残っていない。 その後、同書によると翌七年三月、三枝が第九大区担当の学区取締に任命された。前述したように、明治六年十二月には、大・小区制に改められていた。学区取締・三枝の名は、舎人・東郷・松崎の各校沿革史にも記載されている(ただし、舎人・東郷両校沿革史では、その任命はいずれも明治七年六月二十四日と記録されている)。このことから、学区取締の設置基準は、当初の区の単位から、大区単位(定員は不詳)に変わり、同時にその担当小学区数も増加したことが知られる。「東郷小沿革史」などによると、学区取締は、三枝のあと、糟谷末枝、西岡公美、田中有年、都田義知が任命されている。 なお、町内に残る明治十一年の「受業料納付済証」は、当時の授業料が、学校保護人(後述)の手で一括して「伯者国第九大区会所」(後の河村郡の郡役所に相当)に納められていたことを示す。学区取締の設置基準と同様に、当時の学校の維持、管理が大区単位で行われたものと思われる。市町村あるいは町村組合に学校の設立義務を負わせるのは、明治十二年九月の教育令制定による。学区取締制度も、この教育令によって廃止された。 |
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