第二編 歴史 第四章 近代・現代 第九節 学校教育 一 教育制度の変遷と町内の概観 (二) 明治時代 授業料と学校経費 当時の学校の経費は、すべて民費による負担が原則とされた。県では当初、一般学区民から頭銭(貧富にかかわらず一人一か月六厘の割)を徴収したこともあった。これに、国の委託金や県の補助金がいくらか加わった。しかし、学校経費の不足は否めなかったようである。 小学校の(注)授業料は、文部省の定則では一か月五〇銭(あるいは二五銭)であった。鳥取県においては、実情にそぐわないので、当分の間、父兄の貧富によって一か月上等六銭、中等四銭、下等二銭と定められていた。ただし、一家で男女にかかわらず二人以上就学する場合は、二人目を半額、三人目からは無料とされた(『鳥取県教育史』)。このほか、区内の住民に米、金の学校寄付を奨励したという。 このようにして集めた金は、教員の月給、諸雑費、書籍代などに充てるよう規定された。教員の給料は、原則として各学校の授業料をもって充当したといわれる。 (注)「授業料」という語は、明治十二年の教育令制定から新しく使用された。学制施行当時は、学校は「教〈おし〉フル所」であるとして「受業料」(教えを受ける、の意か)の語が使われている。しかし、教育令で「授〈さず〉クル所」と修正され、「授業料」の語が採用されたという(前掲『島根県近代教育史』)。 |
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