第二編 歴史
第四章 近代・現代
第九節 学校教育
 一  教育制度の変遷と町内の概観
(二) 明治時代

学区番号の変遷
 明治八年十二月になって、県内の学区が次のように改正された。これは、明治六年十二月に、それまでの一一二の行政区が大・小区制に改められていたが、一部の地域で、同じ大区に属していながら、中学区が異なるという不都合が生じたためであった。これと同時に、小学区番号も学校ごとに付けられた。
  第一五番中学区 (第一大区から第六大区、現在の鳥取市・岩美郡・八頭郡)
  第一六番中学区 (第七大区から第一二大区、現在の気高郡・倉吉市・東伯郡・西伯郡の一部)
  第一七番中学区 (第一三大区から第一七大区、現在の米子市・境港市・西伯郡の一部・日野郡・隠岐国)
 この改正で、行政上の大区と中学区の区分が一致した。東郷町域を含む河村郡は、第九大区であった。第一六番中学区の小学区は、第一番から第二一五番とされた(『鳥取県教育史』)。町域内では、藤津小学校第八五番、漆原小学校第八六番(推定)、松崎学校第八七番、高辻小学校(後の小鹿谷小学校)第八八番、長江小学校第八九番(推定)、長和田小学校第九〇番となった。
 県内の中学区番号は、明治九年の三月(推定)に再び変更され、東郷町域を含む第一六番は第一九番とされた。これは同年二月、それまで第三大学区に属していた岡山県(三中学区)が第四大学区に編入されたためである(『島根県近代教育史』)。
 なお、大・中・小の学区制は、後述する明治十二年九月の教育令制定で廃止になったとされる。しかし、町内に残る卒業証書などには、同十四年十二月ごろまで、大・中・小学区番号を記したものが見られる。また、小学区番号だけは残され、その後も改正教育令などに基づいて変更されている。各校の沿革史には、時代的に前後混同したと思われる小学区や中学区の番号が散見される。
 このほか、学制では人口の多少にかかわらず、山村のへき地など通学に不便をきたす場合、特に支校(分校)を置き得るとされた。町域内でも、川上などに分校が置かれたことがある。
 また、学校の名称では、例えば松崎校の場合、「松崎学校」「第八十七番小学」「松崎小学」「松崎小学校」などの変遷が知られる。「○○小学校」と改称した時期は学校によって違い、統一されていなかったようである。
 
明治8年発行の『小学算術書』
 
小鹿谷小学校の卒業証書
大学区・中学区の番号が見られる。日付は明治14年12月26日。
(別所・西田陽二所蔵)
明治10年4月と
同年7月の卒業証書
約3か月で進級したことがわかる。当時、鳥取県は島根県に併合されていた。
(松崎・足羽愛輔所蔵)


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