第2編 歴史
第4章 近代・現代
第9節 学校教育
 1  教育制度の変遷と町内の概観
(2) 明治時代

学区割と学校創設
 学制に示された学区割は、全国を8大学区(のち7大学区となる)に分け、その区ごとに大学1カ所を設ける。大学区は、それぞれ32の中学区に分け、各中学区に中学校1カ所を置く。さらに、中学区は210の小学区に分け、各小学区ごとに小学校1カ所を置く、という構想であった。
 広島を本部とする第4大学区に編入された鳥取県は、3中学区に分けられた。当時、県内の人口は39万人であったから、これを3中学区、630小学区に区分すると、1中学区は人口13万人、1小学区は同600人となる。すなわち、人口600人に1小学校が必要となる。しかし、校舎・教師・財源の確保などの難しさがあって、学校の設置は計画どおりにいかなかった。『鳥取県教育史』によると、県内の小学校数は、明治5年8校、同6年218校、同7年316校、同8年305校であった。計画の約半数に過ぎなかった。
 県内の3中学区は、当初東から第1、第2、第3と呼ばれた。これに、県内第1番から第112番までの小学区が属した。東伯郡・倉吉市など県中部地区を含む第2中学区は小学区番号第41番から第79番までとされた。なお、小学区の112の数は、明治5年1月に定められていた県内の行政を区分した区の数と一致する。すなわち、当初の小学区番号は、個々の学校ごとに付けられたものでなく、行政上の区の番号が小学区番号に利用されたとみられる。したがって、当時の行政区分からすると、町内の小学区番号は、舎人地区の福永・北福・漆原・方地村が第51番、そのほかの村はすべて第53番であった(「行政組織」の節、「一一二の区制」の項を参照)。
 前記の第1・第2・第3の中学区番号は、明治6年12月、それぞれ第15・第16・第17番と変更された。これは、第4大学区督学局の指定によるもので、同大学区管内34中学区の通し番号であった(島根県教育委員会刊『島根県近代教育史第一巻/明治編/通史』。以下『島根県近代教育史』と略称する)。
 各校の沿革史から、明治6、7年当時の学校の創設状況を表71にまとめた。町内では、松崎・高辻・長江学校が最も古く、明治6年3月、一斉に創立(開校)したことがわかる。校舎は神社や寺院を充てた例が多く、江戸時代の寺子屋を受け継いだものであろう。
 しかし、前述したように、明治6年当時、東郷町の区域が中学区番号第2と記された資料は見当たらない。松崎学校の場合は、明治6年12月以降の番号である16番と記録されている。また、小学区番号はまちまちで、前述したような区の番号になっていない。小学校ごとに番号が付けられたのは、次に述べる明治8年12月の学区改正以後のはずであるが、それまで一時的に学校ごとの番号が付けられていたのかもしれない。


表71 町内の学校の創設状況
(注)教員数・生徒数・1か月の授業料総額は『鳥取県史近代第5巻資料編』によった。教員は、いずれも男性である。


明治7年の高辻学校出納表
第16番中学区第70番小学校とある。
(高辻・山本操男所蔵)


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