第2編 歴史
第4章 近代・現代
第6節 観光
 1  温泉街の発展

養生館の創業
 中村実編の『養生館と山枡もくの生涯』によると、久米郡下田中村(現・倉吉市)の豪農・山枡直好が明治5年、今の養生館が立つ辺り(引地村地内)で初めて(注)泉源を開発した。この経緯にちなんで、付近一帯は字「明五ノ湯」の地名が付けられている。直好は、この地に養生館と称する別荘を建てて、村民にも開放し、勤労の慰安と養生の用に供したという。養生館の旅館としての創業は、泉源開発から12年後の同17年、直好の養子・園太郎の代であった。園太郎は、その後、東郷川に橋を架け、対岸に130畳敷きの大広間を建設したこともあった。この大広間は大正7年の大水で被害を受けており、間もなく解体されたとみられる。
 前掲・松崎郵便局の「状況調書」によると、明治36年から42年にかけ、因幡・出雲・岡山・京阪地方などから年間1万人前後が養生館を訪れたことが知られる。特に、同37年3月には松崎駅が営業を開始しているから、汽車を利用した客が漸増したとみられる。
 (注)明治6年3月25日、赤池村(現・羽合町)の戸崎甚六が、現・養生館付近の新田払い下げを県に願い出たことが知られる。その添付絵図には、東郷川尻に「湯元」と朱書きされている。これが、前年に山枡直好が開発した泉源と思われる。しかし、明治17年養生館が営業に用いた温泉は、その年掘削したものである(石川成章『本邦温泉論考』)。


「東郷池辺御新田御払下願」と付図
(羽合町・戸崎文彦所蔵)

東郷川の対岸に建てられた養生館の130畳敷きの大広間
明治43年の写真と推定される(引地・山枡直久提供)


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