第2編 歴史 第4章 近代・現代 第5節 農林水産業 4 東郷湖の干拓 (1) 明治・大正時代 自治体の干拓 湖面の埋め立ては、一般住民だけでなく、自治体も取り組んだ。明治26年8月「川村郡各村組合会」が野花6ヘクタール余り(字「岩根・西走り出・東走り出・東前田・野花川」の沖)、引地5ヘクタール余り(字「寺前・舞鶴・内川尻・明五ノ湯」の沖)の埋め立てを出願している。これは、郡有財産にするための出願であったらしい。埋め立て地を処分することで、増大する郡の諸経費の財源に充てたと考えられるという。 伯耆の東3郡が東伯郡として統合されてからも、郡の事業として大規模な干拓が企られていた。明治44年4月花見村の長和田・門田・長江のほか、浅津村上浅津の沖合、合計53ヘクタールの埋め立て申請が出されている。その面積が大きかったため沿岸農漁民の反対も強く、浅津村会は、肥料にするための水藻や魚類の繁殖を妨げるなどとして、「埋め立てに故障(注・さしさわり)あり」と答申している。 |
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