第2編 歴史
第4章 近代・現代
第5節 農林水産業
 4  東郷湖の干拓
(1) 明治・大正時代

申請件数のピーク
 埋め立て申請の件数では明治26〜28年ごろと、明治の末期から大正初期までの2つのピークが見られる。
 明治26年〜28年は日清戦争を含む期間である。戦争の影響であろうか、このころ米価が高騰したといわれる。米づくりの有利なことに着目した地主や、耕地を増やしたい者などが、相次いで埋め立ての申請をしたと思われる。右の3年間における埋立出願に対する郡長の諮問は39件、45ヘクタールにも達している。
 第2のピークでは、松崎駅が明治37年に開業したのに伴って、沿線の松崎村や対岸の上浅津村で、湯治客などのための温泉場を開こうとする者が増加した。埋立出願の件数と面積は、前掲「浅津村村会議決書類」によると、明治40年から大正2年までに44件、約101ヘクタールにも及ぶ。大正元年には、長和田村の神波為蔵ほか3人が湖内の通称「本湯〈もとゆ〉」を、翌年2年には野方村の佐々木健明ら7人が、同じく通称「瀬ヶ鼻」の埋め立てを願い出ている。「本湯」は東郷川の河口付近であるという。また、「瀬ヶ鼻」は羽合温泉のある突端部(鷲田ヶ鼻)辺りと思われる。埋め立てが実施されたかどうかは不明であるが、出願の目的はいずれも宅地使用であった。
   
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