第2編 歴史 第4章 近代・現代 第5節 農林水産業 4 東郷湖の干拓 (1) 明治・大正時代 埋め立ての申請 東郷湖埋め立ての申請は、明治6年3月赤池村(現・羽合町)の戸崎其六が「東郷池辺御新田御払下願」を県に提出しているのが最も早い例である(次節、「養生館の創業」の項を参照)。内容は、県が干拓に着手しながら中止になっていた引地村地内の東郷川尻〈じり〉を払い下げてほしいといったものである。戸崎の願いが許可されたかどうかは分からない。 明治23年以降、東郷湖水面埋め立ての申請があれば、郡長が関係市町村議会に諮問し、その答申に基づいて許可することになった。「浅津村村会議決書類」(羽合町教育委員会所蔵)によると、同26年以降の郡長の諮問件数は111件、面積は169ヘクタール余りにも及んでいる。その目的は、水田・畑・宅地・湖中水源の陸地利用などであった。 これらの出願が、すべて許可されたわけではなかった。宮内の字「只津」をはじめ、同字「長谷・下宮津・段々ヶ鼻・弁才」、藤津字「南フクラ・ナメラ・下ナメラ・大鼻・沖新田」、引地字「杭ノ和田」、長和田字「狐コロシ」から野花地区にかけての一帯、門田字「小池」、長江字「東蓼尾」の沖合の埋め立て出願に対しては、いずれも魚類・水藻の繁殖地であり、沿岸住民の生業を支える重要な場所であるとして、異議を申し立てている例もある。不許可となったのは、111件の申請中26件を数えるという。 |
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