第2編 歴史
第4章 近代・現代
第5節 農林水産業
 3  畜産・林業

採草地の確保
 家畜の飼料や田畑の肥料に草を必要とする農家にとっては、採草地の確保が重大な問題であった。いわゆる入会地(協同用益が認められている山野)にからむ村同士の紛争は、江戸時代から度々起こっている(「近世」の章を参照)。ここでは、明治年間の長江の事例を紹介しておく。
 長江村は、宝暦5年(1755)の藩の栽許状によって、門田字「三味線塚」「箕ヶ坪」「夫婦岩谷」地内の入会が認められていた。耕地面積に比較して、長江は採草地が不足したとみえて、このときの裁許では、門田の外、埴見・羽衣石地内でも草刈りが認められている。明治10年ごろ地租改正に着手の際、長江は従来どおりの入会権を認めてほしいと門田に交渉した。門田も三味線塚・箕ヶ坪については異議はなかった。しかし、夫婦岩谷については、両村間でその位置に認識の相違があり、争論となった。長江側で夫婦岩谷と呼んだ場所は、門田側では獅子舞谷と言い伝えていたことが原因のようである。
 結果的には、当時の大区長西岡公美らの調停により、境界が設定され、入会権が認められた。その代償として、長江は毎年1円20銭を草手料として門田に支払う協定が成立している(資料編123号)。
 明治10・11年ごろ、東郷地区においても同様なケースがある。この地区で広い採草地を持つのは、川上・別所・小鹿谷である。この3村の採草地に、東郷地区の他村の入会を認める協定書がみられる(小鹿谷・河本悦郎所蔵文書)。
   
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