第2編 歴史 第4章 近代・現代 第5節 農林水産業 1 農業 (4) 果樹栽培 戦後の復興 戦後のナシ園の成績は不良であった。『梨沿革史』によると、戦時中の肥培管理の不足、薬剤の欠乏などで、昭和21年は県平均で平年の6割作であった。多いところで舎人・泊村の7割作であったという。戦後しばらくは生産資材の不足など厳しい条件下にあったが、21年5月に県果実協会が発足するなど、果樹の復興に向けて生産者の努力が始まったのである。 終戦から町村合併までの町域内の資料は少ないが、『梨沿革史』によって当地の事例を2、3紹介しておく。 県果実農業協同組合(のちの県果実農業協同組合連合会)が結成された昭和23年9月、その記念事業として大阪市で第1回鳥取県果実展示品評会が催され、方地の伊藤俊彦が3等を受賞、翌年の第2回では麻畑の清水菊蔵が3等を受賞している。また、同27年7月には同組合中部事務所が松崎駅前、長尾商店の一角に開設された(3年後に閉鎖)。県の中西部に対する出荷調整、啓蒙指導などが目的であった。さらに、同26年7月には、全国果樹研究青年同志会ナシ部会(部会長・野花の寺地信好)の第1回大会が東郷松崎町を中心に2日間開催された。 このほか『東郷の梨』は、同24年・25年の2年間、ヒメシンクイムシによる大きな被害を受けたと記録する。また25年9月、戦後初の海外向けナシが出荷された。 |
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