第2編 歴史 第4章 近代・現代 第5節 農林水産業 1 農業 (4) 果樹栽培 作付統制令と鉄線回収 太平洋戦争が始まる直前の昭和16年11月、県は国の政策に基づいて農地作付統制を実施した。すなわち、平地に栽培されている桑や果樹類を伐採して、麦・芋などの主要食糧作物に転換するよう指導したのである。鳥取県に割り当てられた作付転換面積は1,800町歩であったという。東郷組合でも、集落別に果樹園の掘り取り面積(計10.2反)を決定し、期限付きで作付転換を指示した(『梨沿革史』)。しかし、実際に果樹を掘り取った者はほとんどなかったといわれる(「森田ノート」)。作付転換面積に見合う量のサツマイモなどの供出が目的であったから、他の方法が採られたのであろう。 同16年には、金属回収令も公布された。武器や戦闘機などの製造のため、鉄・銅などの金属供出が強制されたのである。果樹園の針金棚、盗難予防の有刺鉄線、薬剤散布用の真鍮〈ちゅう〉パイプなども例外ではなかった。ナシ栽培に棚は不可欠なものであり、栽培農家は再三抗議、陳情をしたが、戦争遂行の世情には抗しきれず、供出に応じたという。東郷組合内でも、幹線などの主要部分を除いた棚の鉄線回収が指示され、針金約3.2トン、有刺鉄線約5トンが供出されたことが知られる。 このほか同19年5月、大阪から入荷予定のパラフィン紙が石炭不足のため製造不能になり、急きょ町域内から代用の薪〈まき〉500余束が大阪の製造業者に送り出された。この臨機応変の処置で、東郷組合44連、舎人組合21連、花見組合7連のパラフィン袋が入手できたという(以上『梨沿革史』による)。 |
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