第2編 歴史
第4章 近代・現代
第5節 農林水産業
 1  農業
(4) 果樹栽培

出荷・販売の努力
 黒斑病や天災で生産が伸び悩んだ大正末期にも、各市場への出荷や販路拡張の努力は続けられていた。その様子を『梨沿革史』によって概観する。
 大正11年、東郷園芸組合は東京市場に二十世紀ナシを初出荷して好評を得た。同13年には、東京・神田市場に貨車1車を貸し切りで出荷した。東京への貸切貨車による出荷は、県内初の試みであったという。このように東郷園芸組合は、新しい販路の開拓には率先して当たったとされる。(注)
 同14年12月、二十世紀ナシの選果や荷造りの統一、出荷統制などを図るため、県梨共同販売所が設立された。これには、当時の東郷園芸信用購買組合(以下、東郷組合と略称する)、舎人、花見両園芸組合など県内12組合が加盟した。その創立総会は松崎小学校で開催され、副所長には更田安左衛門が選任されている。翌15年から、県産の二十世紀ナシは共同販売所の計画に基づいて出荷された。なかでも東郷組合は、指定店から特別の出荷要請があればその求めに応じるなど、共同販売所のピンチヒッターの役目を演じたといわれる。
 さらに同15年7月、県梨共同販売所主催の第1回二十世紀梨取引懇談会が同じく松崎小学校で開催された。全国主要都市の指定問屋を招いて、専売店の協力による消費拡大と取引の円滑化などが話し合われた。県始まって以来の大会合で、世人の注目を集めたといわれる。
 (注) 「東郷組合事業報告書」によって、昭和初期における同組合の販路開拓の様子を2,3紹介しておく。
 ○「一般財界変動其ダ敷〈しく〉」、取り引き先の指定店の信用調査を行い、販売の監督に努力した(昭和6・7年)。
 ○二十世紀ナシの生産量増加に伴い、各消費地での販売能率をあげるため、ポスターを配布して大いに宣伝に努めた(昭和6〜10年)。
 ○販路拡張のため、台湾、南洋及びアフリカなどに試売した(昭和6年)。
 ○将来、果実の生産が過剰になる場合を考慮して、果汁の製造方法を研究し、大都市方面に試売した(昭和10年)。


ナシ箱の印刷用の字わく
「共撰廿世紀宣」とある。
大正の末ごろのもの(別所・瀬戸秀三所蔵)


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