第2編 歴史 第4章 近代・現代 第5節 農林水産業 1 農業 (4) 果樹栽培 黒斑病とその対策 果実が割れたり腐ったりする黒斑病は、二十世紀ナシの宿命的な病気である。しかし、県内では当初、被害果の味がよく、他品質の完全果より高く売れることもあって、その恐ろしさにさほど注意が払われていなかったといわれる(『梨沿革史』)。東郷村内でも、二十世紀ナシは当初、袋掛けもせず、薬剤も散布しなかった(『東郷村郷土読本』)。 大正8年、県内の黒斑病被害園は30パーセントにも達した(『梨沿革史』)。当時は既に新聞紙の袋の使用や薬剤の散布は実施されていたが、黒斑病は防ぎ得なかったとみられる。その対策には研究が重ねられたのであろう、このころから、柿のシブを引いた新聞紙袋を使うことが始まっている(『東郷の梨』)。また、パラフィン袋は、大正13年以前に奈良県で開発されていたが、当地では同15年に更田安左衛門と有沢竹治が初めて使用し、その効果を確認した。有沢の場合は、同12年に果樹園の80パーセント近くが黒斑病の被害を受けていたという(『梨沿革史』)。 このほか、大正15年には県立農事試験場が、東郷村など県内2カ所で薬剤散布や紙袋の試験を開始している(『梨沿革史』)。黒斑病の防除には、国の援助を受けて、県と生産者が努力を続けたのである。 なお、「東郷組合事業報告書」の昭和7年の頃に、生産品の品質向上のため、二重袋掛けを奨励し、その徹底のため実地検査をしたと記録されている。 |
|