第2編 歴史
第4章 近代・現代
第5節 農林水産業
 1  農業
(4) 果樹栽培

果実の市場出荷
 果樹の出荷は、いつごろ始められたのか、定かでない。当初は個人的に販売していたものと思われる。『東郷の梨』は、明治36年、金涌富吉が下関に長十郎を初出荷したとする。また、「森田ノート」は上福喜一郎(高辻)の談として「(明治37年ごろから長十郎を)当初は自家用に栽培したが、年々収量が多くなったので、地場商人にうり小遣い銭になった」と記録している。
 公的な記録による果樹の移出は、前掲・松崎郵便局の「状況調書」の明治41年10月末調査分が初見である。過去1年間に、主に、東郷村で栽培された果実5,000貫が、鳥取・米子・松江に出荷されたとする。恐らく、鉄道の貨車を利用して輸送された最初の年であったとみられる。翌42年10月末の調書では、主に東郷・舎人両村で栽培された12,160貫が出荷されている。いずれも果実の種類は明らかでない。『梨沿革史』によると、明治42年から、県内産二十世紀ナシの地方市場への出荷が始まり、その真価が認められるに至ったという。さらに第一次世界大戦後の好景気で庶民の生活が向上し、二十世紀ナシは赤ナシの数倍の価格で売れたという。このようなことから、町域内でも赤ナシ、リンゴ、モモなどを二十世紀ナシに植え替える農家が増えたものと思われる。旧村時代のナシの出荷数は資料に乏しいが、東郷村の状況について「東郷園芸組合事業報告書控」(川上・森田泰徳所蔵、以下「東郷事業報告書」と略称する)などの記録を紹介しておく(表59)。
 なお、鳥取東郷農業事業協同組合所蔵の「御届報告書綴り」は、東郷村のナシ出荷箱数を、昭和17年73,702、同18年79,464と記録している。


表59 東郷村のナシの出荷量の推移
年次/品種
二十世紀
長十郎
早生赤
晩三吉
その他
合計
大正12
996
1,433
1,923
29
531
4,912
13
2,481
4,520
5,040
200
1,029
13,270
14
4,135
4,734
2,817
263
1,093
13,042
昭和元
4,683
2,547
2,548
398
536
10,712
2
4,872
2,095
1,787
00
168
8,922
3
10,523
1,204
1,808
00
129
13,664
4
12,424
756
946
00
35
14,161
5
21,087
938
499
00
325
22,849
6
18,829
836
834
762
00
21,261
7
22,827
117
403
1,386
00
24,733
8
21,557
00
00
3,650
00
25,207
9
32,857
00
00
3,650
00
3,507
10
33,740
00
00
2,752
00
36,492
11
36,781
00
00
5,175
00
41,956
12
32,209
00
00
2,771
00
34,980
13
42,252
00
00
843
3,328
46,423
14
39,194
00
00
860
2,558
42,612
15
69,059
00
00
3,973
5,378
78,410
16
74,985
00
00
1,873
3,899
80,757
(注)昭和10年までは『東郷村郷土読本』、11年以降は「東郷組合事業報告書」によった。品種の「その他」には、当初は明月、今村秋、世界一など、昭和13年以降は八雲、菊水などを含む。なお同11年の「晩三吉」の数量は他の品種も含んでいる。


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