第2編 歴史
第4章 近代・現代
第5節 農林水産業
 1  農業
(4) 果樹栽培

果樹栽培の先駆者たち
 江戸時代までの町域内の果樹栽培に触れた文書は、これまでのところ皆無である。しかし、果樹がなかったわけではない。町域内には字「柿原」(方地)、「柿ヶ坪」(北福)、「梨木谷」(引地)、「枇杷〈びわ〉ヶ原」(川上)、「梨木原」(羽衣石)、「梨子木谷」(長江)、「枇杷ノ木」(野花)など、果実の名を冠した小字名が散見される。古くから、果樹のある場所として知られていたのであろう。下って、江戸中期の元禄時代に、鳥取藩が農家の副業として果樹栽培を奨励したとされる(前掲『鳥取二十世紀梨沿革史』、以下『梨沿革史』と略称する)。当時は山野に自生した木、屋敷の周辺に植えた木から収穫する程度であったとみられる。前掲『東郷の梨』は、明治の初期、当地に既に柿〈かき〉、ミカン、その他の果樹があり、品質の良いものもあったが、土質と気候が栽培に適していたため(後述)、かえって放任されたままであったと述べている。
 町域内での本格的な果樹栽培の導入は、前述したように明治30年前後のころであったとみられる。『東郷の梨』などによると、この時期に有沢竹治(中興寺)、更田安左衛門・秋久佐太郎(久見)、瀬戸兵蔵・金涌富吉・伊藤馬蔵(別所)、伊藤兵蔵(方面)などが、岡山、神奈川、北海道辺りからモモ、りんご、赤ナシなどの苗木を購入し、次々と栽培を始めている。これらの人たちが、東郷村内の果樹栽培の先駆者であった。
   
<前頁
次頁>