第2編 歴史 第4章 近代・現代 第3節 戦争と災害 3 自然災害 大正時代の水害 大正時代では、2つの水害が知られている。まず別所・西田陽二所蔵の「日誌」によると、元年9月23日、大洪水で田畑が荒廃、道路や堤防が流失し、松崎では田町・仲町の被害が甚だしく、2階がようやく用をなしたと記録する。なお、『東郷村郷土読本』に大正6年の水害とあるのは、この年の誤りと思われる。 さらに同7年9月、県内を暴風雨が襲った。『鳥取県史近代第二巻政治篇』は、県内の死傷者85人、流壊家屋約2万5,000戸と記録している。鳥取市の賀露で500ミリメートルの雨量を記録する大豪雨であった。 『羽合町史後編』によると、同月13日正午ごろから暴風雨になり、東郷町域内の各河川は異常出水した。このため東郷湖が増水し、特に翌14日の午後には、1時間に21〜24センチメートルも湖面の水かさが増したという。また、『東郷村郷土読本』所収の「水災記」や、東郷小学校刊の『卒業生が語る百年史』などによると、別所側の東郷川の土手が決壊し、国信の前から引地にかけて田畑が冠水した。また、方面では住宅6軒が流失した。さらに松崎や引地、野花などの湖岸に近い集落では家屋の床上浸水が相次いだ。東郷川にかかるすべての橋は流され、引地の前の鉄道は、レールが枕木に載ったまま、県道の下の方まで押し流されていたという。 このほか、地元の伝承によると、麻畑、白石などでも家屋が流失した。また、羽衣石川の堤防が切れ、長和田の集落に水が流れ込んだという。東郷小学校は、5日間休校となった(「東郷小学校沿革史」同校所蔵)。 なお、当時の『鳥取新報』は、羽衣石で2人、埴見で1人の死者が出たとする。また、養生館の被害の様子、花見村青年会の救助活動なども報じている(資料編138号)。 |
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