第2編 歴史
第4章 近代・現代
第3節 戦争と災害
 2  学童疎開

長栄寺での生活ぶり
 当地の疎開児童のうち、長栄寺での生活ぶりを紹介しておきたい。
 同寺では、35人の児童のため、庫裏全部を提供した。第1日目は、ボタモチ・五目御飯やフナのてんぷらで児童をねぎらった。
 大人数のため、ふろや毎日の食事が大変であった。ふろは、井戸水を児童のバケツリレーで運び、全員の入浴が終わるまでに2回から3回、お湯を沸かした。1か月に数回は松崎の温泉に引率した。児童たちは大喜びであったという。また、食事では当時、米に代わって大豆が主食品として配給されたため、米と大豆が半々の御飯であった。児童のほとんどが、お腹の調子を悪くしたため、1日置きにサツマ芋飯、野菜飯というふうに工夫をした。このほか、サツマ芋を蒸したり、ジャガイモ、カボチャなどを材料にしただんごを作ったりして、児童に腹いっぱい食べさせるようにしたという。
 疎開児童は、東郷国民学校に通った。長靴がなかったので、冬には別所の人たちが、ワラで編んだ雪靴を作って贈った(以上、同寺・石賀文雄談)。
 なお、疎開児童に面会するため、神戸市の父母が来町し、宿泊することがあった。交通の不自由ななかで当地に来た親たちは、児童に対する地元の温かい心づくしを見聞きし、涙を流して喜んだという。長栄寺には、千歳小学校長発行の「遠隔ニツキ即日帰神不能ノタメ」と理由を記した学童集団疎開面会者宿泊許可証が数枚残っている。


昭和19年10月学童集団疎開面会者宿泊許可証
(別所・長栄寺所蔵)

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