第2編 歴史
第4章 近代・現代
第3節 戦争と災害
 2  学童疎開

千歳国民学校の受け入れ
 昭和19年9月11日、神戸市・千歳国民学校(現・市立千歳小学校)初等科3年生以上の男子児童193人が、教師や寮母などに引率されて列車で当地に疎開してきた。児童は、黒線の入った白の帽子にゲートル姿であったという。松崎駅には、役場職員や関係者が多数出迎えた。「立木柳蔵日記」には「千歳国民学校児童二百余名到着につき、これを出迎え感慨無量なりき」と記されている。
 同校の「学校日誌」によると、男子児童の内訳は、3年37人、4年47人、5年46人、6年63人であった。女子児童128人は、男子に1週間ほど遅れて19日に松崎駅に到着した。白の登山帽にモンペ姿であったという。疎開児童は、男子は現・東郷町域内、女子は羽合町域内に分宿した。神戸市教育委員会が昭和39年に刊行した『神戸市教育史第二集』には、東郷町側の分宿施設は5か所、羽合町側は4か所と記録されている。
 東郷町域内では、別所の長栄寺、中興寺の龍徳寺、松崎の法林寺・西向寺・本立寺、引地の大伝寺、それに養生館、谷水旅館、忠成館(現・大和荘)の合計9か所で、疎開児童が寝泊まりしたことが知られている。
 このうち、大伝寺は、昭和20年になってから養生館に収容されていた児童が移って来たものという。これは、養生館が谷水旅館などとともに、戦局が激化した同年3月ごろ、戦地から送還される傷病兵の収容施設として(注)鳥取陸軍病院松崎分院となったからである。恐らく、町域内の前記9か所のなかには、大伝寺のように後になって児童を収容した施設が含まれているものと思われる。当初は5か所であったのであろう。一方の羽合町側では、『羽合町史後編』によると、望湖楼、日進館、東郷館、香宝寺の4か所の名が記録されており、前掲書と符合する。ただし、香宝寺は、児童の受け入れを予定して準備は整えていたが、分宿は中止になったという。
 前記の東郷町域内の施設のうち、長栄寺には5・6年の男子35人、法林寺には3・4年の男子32人が収容されたという。これに数人の教師や寮母などが付き添った。他の施設は不明であるが、養生館や谷水旅館では、客室や大広間などを提供したという。
 (注)現・河本旅館にも、軍医1〜2人、着護婦4人ほどがいて、戦傷兵の治療に当たった。軽症の患者が多く、療養が主であった。昭和20年9月には引き揚げたという(河本一三談)。


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