第2編 歴史 第4章 近代・現代 第3節 戦争と災害 1 戦争と郷土 太平洋戦争下の郷土 昭和時代では、主に昭和16年に始まった太平洋戦争下の郷土の様子を概観する。 昭和15年、我が国に挙国一致運動が高まり、既成政党が解消され、大政翼賛会という官製の政治組織が生まれた。翌年、翼賛会の市町村支部が置かれ、その下部組織に隣組が設けられた。隣組は勤労作業や物資配給など翼賛会運動推進の最小単位とされた。また、市町村には警防団が組織され、警報の伝達や灯火管制、消防訓練などの任に当たった。 昭和17年3月5日には、東京に初の空襲警報発令があった。「立木柳蔵日記」によると、町域内の警戒警報(空襲警報を含む)発令の初見は、(注)同17年4月18日である。この年は12月までの合計6回、警報が発令されている。また、同20年4月22日、アメリカ軍のB29爆撃機が当郡上空8,000メートルを通過したと記されている。当町に対する空襲はなかった。 戦時中は、食糧や金属類の供出、チ号演習なども強制された。チ号演習とは、戦争末期の労力奉仕のことである。本土決戦に備え、山腹などに狙撃陣地や物資貯蔵庫などを造るための横穴掘り・資材運び、あるいは倉吉市高城の飛行場整備などに各市町村から多くの人が動員された。「立木柳蔵日記」によると、当地からも昭和20年5月から7月にかけて、合計8回、チ号演習に出掛けている。その多くは、倉吉市の小田山での坑道掘り(築塞〈さい〉)であった。当時、東郷村・松崎村組合役場の助役であった立木は、自ら村民を引率してチ号演習に参加している。参加者は第3回100人、第7回80人などと記録される。しかし、これらの作業は空しい労働奉仕であった。間もなく終戦を迎えたため、飛行場などはいずれも無用となったのである。 このほか、ガソリンの代用となる松ヤニの採集なども行われた。松根油と呼ばれる燃料を作るためであった。 なお、太平洋戦争時代から終戦後にかけての供出割当、物資配給など当時の様子は、前述した白石の区有文書(資料編106号)を参照されたい。 (注)この日、アメリカ軍の16機が空母を発進して、東京・名古屋・神戸などを初めて空襲した。 |
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