第2編 歴史 第4章 近代・現代 第2節 財政と村政 2 主要な村政 (3) 移住の奨励 満蒙開拓青少年義勇軍 昭和6年9月の満州事変以来、満州(中国北東部)への移民が注目され始めた。これは、満州への分村を行うことで、農村人口の適正化を図ることが目的であった(『鳥取県史近代第四巻社会篇文化篇』)。町内からも、開拓移民として満州に渡った人がいた。 その後、満州への移民は、軍事的な意味を持つようになった。その政策の1つが、昭和12年7月に計画された満蒙開拓青少年義勇軍である。青少年(16〜19歳)の募集は、各府県が行い、茨城県の内原訓練所、次いで満州で訓練したあと、移民として独立させることになっていた。鳥取県から第1回の義勇軍を送り出したのは、同13年3月である。当初は、各府県出身者の混成であったが、同15年から鳥取県出身者だけで、一個中隊をつくった。その編成は、軍隊組織にならったものであったという。 義勇軍の募集と送り出しは、国策として強力に推し進められた。後には、各市町村に拓殖推進委員会が設けられ、市町村長を会長に、国民学校長らを委員にして、活動が進められたという(以上、鳥取県刊『百年の年輪』)。「花見小学校沿革史」(同校所蔵)には、昭和15年に同校職員が、前記の内原訓練所に「拓務講習」の受講のため、出張したと記録されている。義勇軍の募集に協力するための実情視察が目的であったと思われる。 町内からは、次の36人が義勇軍として渡満した(藤津・遠藤進の調査などによる)。満州での農作業や軍事教練は、寒さのなかで厳しいものであったという。なかには、異郷の地で召集され、戦死した人もいる。特に、終戦前後はソ連軍の進攻で、開拓民は満州の地を追われた。その逃亡生活では、家族が離れ離れになるなど、悲惨なものであった。 なお、義勇軍の満州での生活ぶりなどは、第4次鳥取拓友会編『曠野〈こうや〉の青炎』、第5次鳥取田中中隊編『満州開拓青年川訓練義勇隊満鉄哈所誌緑の地平線』、船上拓友会記念誌刊行委員会編『興凱湖畔の夢』などを参考にされたい。 |
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