第2編 歴史 第4章 近代・現代 第1節 行政組織 1 行政組織の変遷 戸籍と名字の使用 明治新政府の課題は、富国強兵、殖産興業などであった。このため、戸籍法(明治4年)、学制(同5年)、徴兵令・地租改正令(同6年)と、相次いで新制度を発足させている。 このうち戸籍法は、人口や家族構成などを明らかにするとともに、学制や徴兵令を円滑に実施するためのものでもあった。この戸籍は、壬申〈じんしん〉の年の明治5年2月に施行されたことから「壬申戸籍」と呼ばれている。 なお、戸籍法が公布される前年の明治3年9月、太政官布告で「平民ノ者自今苗〈みょう〉字ヲ許ス」と名字の使用が許された。当時、新しく付けられた名字は、屋号や家の位置によったもの、村の物知りに頼んで付けてもらったもの、あるいは主家からもらったり、良家にあやかろうとして付けたものなど、いろいろであった。なかには、村中ほとんど同じ名字を付ける場合もあった。町内でも、川上の森田、引地の森、方地の伊藤、長和田の会見、野花の長谷川、門田の岡本・前田、長江の岡本・音田などが、その例であろう。 この名字許可の布告は、比較的速やかに周知されたとみえる。松崎においては、その半年後の4年3月、既に各戸の名字がそろっている。また、この当時、何兵衛などの名前の者に改名が指示されたことは、「近世」の章で述べた。 白石区有文書のなかに、明治3年3月改めの「伯耆国河村郡白石村戸籍」がある。『鳥取県史』は、「戸籍法の施行に先立って、藩では村単位の過渡的形式の戸籍簿を作らせたようである」としているが、白石村の場合は、その巻頭に明治元年に京都府が触れ出した「戸籍編成の方法」を掲げ、それに基づいて戸籍を整備した形式をとっている。 |
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