2編 歴史

3章 近世

6節 近世の文化

3 文化人の来訪

 

高辻で仏像を刻んだ木喰五行

 木喰(もくじき)とは、米殻を断ち、木の実などを食べて修行することをいい、そのような僧を木喰上人と呼ぶ。木喰五行(ごぎょう)上人は俗姓を伊藤と称し、享保3年(1718)、甲州(山梨県)に生まれた。生まれつき非常に賢い子であったと伝えられる。22歳で仏門に入り、宝暦12年(1762)、45歳のとき木喰観海上人から木喰戒を受けた。このころから、僧名を「行道」と名乗ったらしい。終生、木喰戒を守り、肉食はもちろん火食(煮炊きした食物)を避けた。特にそば粉を練ったものを好んだといわれる。

 安永2年(1773)、56歳のとき日本回国の大願をかけ、諸国を巡礼して、行く先々で仏像を彫刻した。寛政5年(1793)、「行道」の名を捨て、「五行」と改めた。

 彼が山陰道に入ったのは寛政10年(1798)のことである。出雲から東進して若狭に至ったが、ここで引き返し、再び但馬・因幡を経由し、伯耆に入った。伯耆では、石脇・

泊・園・高辻・伊木・八屋などの村に宿をとって仏像を刻んだ。高辻には大日如来坐像を残している。

 寛政12年(1800)、83歳のとき日本回国の大願を成就した。柳宗悦の作成した「木喰五行上人廻国遍路足跡略図」によれば、足跡をしるしていないのは、隠岐・壱岐・対島の3島にすぎない。日本回国の大願をかけてから没するまでの38年間に、巡礼した里程は5000里に達したといわれる。

 90歳前後で、心願の「千体仏」を刻み終わり、さらに「2千体」の彫刻を心願していたことが知られ、その体力と精神力の強さには驚くべきものがある。

 文化7年(1810)、93歳で没したといわれる(柳宗悦『木喰上人』による)。

 高辻を訪れた木喰上人は、山本操男家に宿泊し、同家の庭にむしろ囲いをして、その中で如来像を刻んだと伝えられる(『町報東郷』76号)。


木喰五行上人の自刻像
(柳宗悦選集『木喰五行上人』から転載)