第2編 歴史
第2章 中世
第5節 中世の信仰・その他

南条踊り
 山口県・広島県に数か所、南条踊りと称する踊りが現在も踊り継がれている。羽衣石南条氏に関係がある踊りとする点では共通している。このうち山口県岩国市に伝わる踊りについて、同市の教育委員会が『岩国の南条踊』(桂芳樹編)と題して詳細な記録を刊行しているので、これにより南条踊りの由来などを紹介する。踊りの成立したのは、400年以前の戦国時代のことで、その由来については諸説があるが、概括すれば次の3説である。
 (1) 吉川元春は羽衣石城を攻撃したが、容易に落ちなかった。そこで一計を案じ、強兵をすぐって踊り子に仕立てて、羽衣石城に踊り入らせ、南条方の油断をついて切り込み、城を攻略した吉例〈きつれい〉(めでたいしきたり)の踊りとする説(『残太平記』その他)。
 (2) 天正年間の長い戦乱によって死没した将兵らの追善のため、元春が7月15日(天正10年か)に施餓鬼〈せがき〉の供養をしたが、このとき精霊踊りを催した。これが非常に風流であったので、南条踊りと名付けて吉川家に伝わったとする説(「南条民語集」)。
 (3) 吉川方に人質や捕虜になっていた南条方の将兵から吉川方の武士が南条家の盆踊りとして伝授を受けたのが、その発端とする説(「吉川古語伝」その他)。
 (1)は城攻めの踊り、(2)と(3)は盆踊りである。岩国では南条踊りは盆のころに踊られていたので盆踊り説がよいように思われるが、(2)では南条踊りという名の説明がつかない。そこで(3)の説が妥当であろうとするのが、岩国の識者の意見である。しかし、一般の人々は、吉川元春が謀略をめぐらして羽衣石城を攻略した踊りと信じ、そのことを誇りとして踊り継いでいるようである。
 写真で見る南条踊りは、少年たちが武装して、勇ましい踊りのようにみえる。勇壮な盆踊りは珍しいが、城攻めの踊りと信じ、400年来踊り継がれてきたなかで変形したのかもしれない。
 岩国の南条踊りにはさまざまな歌詞があるが、その中に次のようなものがある。
 (一) 喜蔵花壇にたけ植て、本は尺八、中は笛、うらは歌書く筆の軸
 (二) 喜蔵殿こそ伊達〈だて〉人よ、長い刀に鰐〈つば〉かけて、何処へ御座るか喜蔵殿
 (三) 喜蔵殿こそだて人よ、榎の葉縊〈くく〉しの小袖着て、どこへ御座るか喜蔵殿
 (四) 喜蔵見たさにはな植て、花の木かげに日を暮す
 南条踊りの歌詞の注釈書で、「南条秘妙」と題する作者不明の写本が岩国に伝わっている。それによると、
 南条の小性津村喜蔵宗政は、常陸介信政の子也、世に勝れた美童也、御寵〈ちょう〉愛斜〈ななめ〉ならずして300貫の地を下され、長瀬に下屋敷あり、新川の名竹を植る也、和歌を詠じ笛の妙を得たり(略)
と述べている(前掲『岩国の南条踊』)。南条氏の家臣に津村氏を名乗る者がいたことは史書にも見えており、「南条秘鈔」の記述は信ずるに足るかもしれない。
 最近、南条踊りのこの歌詞が、ほかにも伝承されていることが分かった。文化庁の刊行になる『無形文化財記録芸能編4』民俗芸能<風流西日本>』によれば、愛媛県宇摩郡土居町の薦〈こも〉田大明神踊りの歌詞の一節に、
 (一) や喜造花壇に花植えて、花植えて、や雨は降るとも風吹くな(略)
 (二) や喜造花壇に竹植えて、竹植えて、や本は尺八中は笛、末は文字書く筆のじく(略)
などとあり、特に二番は南条踊りの歌詞と全く同一といってよい。しかし、歌詞の由来は地元にも伝わっていないようである。



南条踊り
(桂芳樹編『岩国の南条踊』から転載)

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