第2編 歴史 第2章 中世 第4節 豊臣政権下の南条氏 羽衣石城の滅亡 慶長3年(1598)秀吉の死によって、朝鮮における戦争は終結し、全軍が帰還した。その後、徳川家康と石田三成との対立が激化し、ついに同5年(1600)9月、全国の諸大名を東西に2分して美濃の関ケ原で激しい戦いが展開された。一家存亡の岐路であるだけに、諸家にあっては容易に態度を決めかねたと史書は説いている。 南条元忠も大坂方(石田方)から催促を受け、重臣を集めて協議した。広瀬隼人.津村長門.山田越中らは家康の優勢を説いてこれにつくよう勧めた。一方、山田佐助は秀吉に受けた厚恩と、西国の大名が皆石田方に味方するのに当家ひとり徳川方につけば、たちまち隣国の諸将が攻撃してくるであろうが、そのとき東国にある家康の救援は期待できず、落城は必至であるから大坂方に味方すべき旨建言した。元忠は結局後者の意見を入れて石田方についたが、結果は敗戦に終わった。これにより数代にわたって造営された羽衣石城をはじめ出城のたぐい、南条氏ゆかりの神社・仏閣などすべて徳川方の手の者によって焼き払われたと伝えられる(『伯耆民談記』)。 こうして250年間続いた羽衣石城は滅んだのである。 |
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