第2編 歴史 第2章 中世 第4節 豊臣政権下の南条氏 伯陽六社みちの記 この朝鮮出兵に関連して一ノ宮がとがめを受けたといわれている。江戸時代の元禄7年(1694)に米子の人竹内自安が伯耆の式内社六杜参拝を思い立ち、その紀行文を「伯陽六杜みち(道)の記」と題して上下2巻に収めている。その中で一ノ宮に参詣した時の記述に次の一節がある。 そもそも此の御社そのかみ(その昔)は神領もいかめしく寄附せられ、華表〈かひょう〉より随身門本社別宮いとこうごうしく朱の瑞垣〈みずがき〉みがき給えるを、文禄の比〈ころ〉、豊臣朝臣異朝を討たんらんと謀り給う時、いかな(鳥居)る思慮にや此の神官・社僧その催しにしたがわず帰陣の後、其のとがめにより、神領も悉〈ことごと〉く没収せられ、わずか御供〈く〉田のみ残されしとなん。(下略) 秀吉は文禄元年(1592)に15万余、慶長2年(1597)には14万余の大軍を朝鮮に渡海させている。「神官・社僧その催しにしたがわず」とあって、具体的に記載されていないが、おそらく一ノ宮の社領相当の課役(兵糧と人夫の拠出)に不足があったためかと思われる。そのために社領を没収されたのではなかろうか。朝鮮の役は、南条領内の民衆にも多くの負担を強いたことと推察される。 また、『伯耆民談記』に、「中務太輔元忠の代に至り、(中略)神杜仏閣を荒廃に委〈まか〉す、朝鮮役の時も、昔より斧斤〈ふきん〉を入れざる所の神木を伐りあらし数多〈あまた〉兵船を造る故にや、渡海も遅く、さしたる軍功もなく(後略)」と、元忠の行動を批判している。兵船を造ることは、命令であるから致し方ないにしても、神木を切ることは、神官はもちろん一般民衆の不評を買ったのであろう。朝鮮の役は、さまざまな波紋を及ぼしていたことが分かる。 |
|