第2編 歴史 第2章 中世 第4節 豊臣政権下の南条氏 南条氏の朝鮮出兵 因伯の諸大名はいずれも文禄・慶長の役に兵を率いて朝鮮に出動している。秀吉から南条氏にあてて出兵を要請した朱印状が伝来するので挙げておく(大阪市.南条禎成所蔵)。 浅野弾正(長政)少弼〈ひつ〉を差遣わされるに就き仰せ出だされ候。 一船相揃い次第御渡海成らるべく候の条、高麓にこれ在る船共の儀は申すに及ばず、面々在所へも中し遣わし、此の時に候間、船数これ有る様に精を入れ馳走〈ちそう〉有るべく候。名護屋(佐賀県)に於いて、直ちに請取らせらるべく候条、一艘も多く候程手柄たる可く候。然らば一手の組々を仕り、慥〈たしか〉なる奉行相副〈そ〉え、弾正奉行相加わり、名護屋へ差越すべく候事。 一各〈おのおの〉兵粮〈ひょうろう〉の事、多く貯え候程手柄たるべく候。左候とて、兵糧これ無きを所持候様に申し成し、下々迷惑させ候はば、相届く間敷〈まじく〉候。然れば何迄の兵粮これ在る通り日限を指し、人数も各如在〈じょさい〉(ておち)にては有間敷候間、当分軍役程これ無く候ても苦しからず候条、有次第相改め、一札を兵浪手に出し、寄々〈よりより〉にて請取るべき事。 一猶〈なお〉以て船到来次第、御渡海成られ御仕置仰せ付けさせらるべく候間、弥以〈いよいよ〉て由(油)断有るべからず候。委細は浅野弾正少弼申すべき也。 二月九日○(秀吉朱印) 南条伯耆守とのへ (この読み下し文は、倉吉古文書を読む会編『鳥取県中部郷土の古文書』による) 年の記入がないが、文禄2年(1593)のものと推定されている。豊臣政権下の大名の知行地は、軍役高と無役高に分けられる。南条氏の知行高4万石のうち、軍役高は3万石であった。中国諸大名は1万石につき500人の軍役と定められていたから、南条氏には1500人の出兵を割り当てられた(資料編56号参照)。元忠はまだ幼少であったので、叔父の元清が代わって出陣した。 秀吉の朱印状は、船・兵糧を少しでも多く集めるのが手柄だとして、その準備を急ぐよう命じたものである。 |
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