第2編 歴史
第2章 中世
第4節 豊臣政権下の南条氏

加茂氏南条
 南条氏初代貞宗が羽衣石に築城する以前にも、南条を名乗る者が伯耆にいたと推定されることは前述した。ここでは羽衣石南条氏が「賀茂朝臣」あるいは「加茂氏」と称した事例を紹介する。倉吉市志津、倭文神社宮司永江正和所蔵の「南条宗勝・元続連署願文」の末尾に、
 天正弐年甲戌小春如意吉祥日
 願主 伯耆国住賀茂朝臣南条豊後入道宗勝敬
  同息 又四郎元続白
 奉呈上
  志津大明神御宝殿
とある。また、このほか、『伯耆民談記』に「干時天正五年卯月吉日(中略)奉遷宮牛頭天王棟上一宇、大檀那加茂氏南条元続」(桜、大日寺の項)、「天正二十壬辰年二度建立奉修造三所権現、大檀那加茂氏南条虎熊元忠、同左衛門督元清、武運長久家門繁栄之処(後略)」(船上山の項)の2例がある。いずれも天正年間のものであるが、南条氏が宗勝・元続・元忠3代にわたって「加茂氏」を称していることは注目すべき事例である。このことをもって、南条氏が初代から加茂氏を称していたと類推するのは早計かもしれないが、その可能性は残る。南条氏が加茂氏を称した始期、その理由などは今後の研究課題であろう。


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