第2編 歴史 第2章 中世 第4節 豊臣政権下の南条氏 南条氏と保国寺領 京都相国寺の塔頭光源院の末寺で保国寺という寺があった。その位置は古代から伯耆の重要な地である四王寺山(倉吉市)の山麓〈ろく〉近くにあったと推定されている。『鳥取県史』によれば、3代将軍足利義満の時代に山名氏によって創建されたという。資料編23号の「惟高妙安置文」は山名氏と保国寺との関係を伝えている。 南条氏所領の東3郡のうち、大谷・国分寺・四王寺が保国寺領であった。その地を南条氏が押さえてしまったと推定される。資料編に収録した光源院文書10通のうち9通までは、保国寺領関係の書状であり、年未詳であるが、発給された期間は宗勝・元続2代にわたっている。宗勝あての足利義昭・毛利輝元・吉川元春の書状は、いずれも寺領を京都相国寺へ返還するよう求める内容である。また、元続に対する蜂須賀正勝書状は、秀吉の意向として寺領を返還するよう説得している。これに対し元続は、蜂須賀氏並びに光源院に了承した旨を書き送っているが、実際に寺領を還付したかどうかは確認できない。 |
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![]() 図28 打吹城見取図(『倉吉市史』から) |
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