第2編 歴史
第2章 中世
第4節 豊臣政権下の南条氏

南条氏の支配拠点
 南条元続は豊臣政権下で、東伯耆を領有する大名となって、一応政局は安定した。戦時では要害堅固な山城が必要であるが、平和になり民政が重要な仕事になると、交通不便な山城では政務を執るのに支障があり、諸大名は次第に平地に城郭を構える。南条氏が山頂の羽衣石城の外に築城した記録も伝承もないが、もし平地に城郭を構えたとすれば、長和田あるいは小鹿谷が考えられる(近世第3節「小鹿谷の陣屋」の項参照)。
 また、南条氏は倉吉打吹城を重要な拠点とした。『伯耆民談記』によれば、倉吉は「弘治・永禄の頃(1555〜69)は人家唯三百余りの邑里となる。(中略)天正十年(1582)の頃、所々の工商、自然に来聚して家屋を造り、市町を建並ぶ」とあり、16世紀の後半から倉吉は次第に人口が増加し、東3郡の主要な地になったと推定される。南条氏は打吹城に城番として南条備前守・山田越中守・小鴨元清ら一族・重臣を順次派遣した。彼らによって打吹城は改修され、備前丸・越中丸と呼ばれる二の丸・三の丸が設けられている。そのほか、小鴨元清居住の小鴨丸、南条屋敷などがあったことも伝えられる(『倉吉市史』)。越中町・越殿町も山田越中の居館跡とされる。


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