第2編 歴史
第2章 中世
第3節 室町・戦国時代
 2  戦国時代の郷土
(2) 毛利氏の東伯耆支配と南条氏

戦乱の終結
 元続は同13年(1585)西伯耆に侵入して河原山城(大山町、孝霊山)を攻撃したことがあったが、東伯耆においては同10年の戦いをもって戦乱は終結したとみられる。大永4年(1524)尼子氏の伯耆乱入以来、約60年間打ち続いた戦乱に田畑は戦場となり、庶民は戦火を避けて逃げまどったことと思われる。
 前掲「埴見郷伝記」は、次のとおり述べている。
(前略)往昔羽柴筑前守秀吉公と毛利安芸守闘諍〈とうそう〉ニ因テ、吉川駿河守元春公橋津村駒之山ニ在城シテ、天正五年より同十三年迄兵乱ニ付、長江・門田村の放火に因って焼失致し、門田の者共は多く因州に立退、騒動の間は浪牢す。(岡本)市右衛門先祖は用か瀬へ当分住居す。後ニハ日野郡下芽〈さがりかや〉村(江府町)工流浪シ、四代前ノ市右衛門七才之年帰郷ス。法名風山宗金居士事也。長江村者共ハ会見郡ニ立退ク。音田市郎左衛門元祖同九郎右衛門は会見郡へ由緒有之故なりと云フ。于時〈ときに〉太閤秀吉公青屋村へ在陳(陣)シ、南条氏ヲ御救遊サレ吉川元春公退陳ニ付静謐〈せいひつ〉ニ及ヒ長江・門田者共帰郷致シ相続ス(後略)
 このように、農民はゆかりを尋ねて流浪した様子が分かるのである。現在、日野町に音田・恩田姓が約30軒、江府町には岡本姓が10軒ばかりある。これらは長江・門田の音田・岡本家ゆかりの一族と思われる。
 また、門田の前田政義家の屋号を紙屋と称するのは、同様に天正の戦乱を避けて、一時勝部谷紙屋(青谷町紙屋)に居住したことに由来するという(「聞書き」藤津・米原尊昭所蔵)。


図27 中世における署名と印判の例(佐々木五郎所蔵文書から)
印判には、花押・略押・刻印が使われている。身分の低い者、
無学の者は×○のような簡単な形を描いて花押に代用した。
これを略押という(『広辞苑』)

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