第2編 歴史
第2章 中世
第3節 室町・戦国時代
 2  戦国時代の郷土
(2) 毛利氏の東伯耆支配と南条氏

天正9年羽衣石城の攻防
 天正9年(1581)6月25日、秀吉は2万余の大軍を率いて鳥取城攻略のため、姫路を出発した。秀吉の大軍を受けて、鳥取城を死守する大任を負ったのは、毛利方の部将吉川経家である。秀吉は持久の策をとり、鳥取城の兵糧を断つことに成功した。8月20日付けで羽柴藤吉郎(秀吉)にあてた織田信長書状(長浜市.澤田義厚所蔵。県立博物館『山陰の大名』展農図録所収)の一節に、「鹿野と伯耆ニて有之敵城へ南条押詰、及一戦、数多討取候。討入仕候て乗取候由、近来神妙候」とあり、南条氏が上方軍に加勢して活躍した状況を伝えている。
 一方、吉川元春は鳥取城の後詰〈ごづめ〉(救援のための軍勢)に嫡子元長を先鋒として伯耆に派遣した。八橋城に着陣した元長は杉原盛重と相談の上で、国中の諸将に参陣するよう呼び掛けたが、みな日和見の態度で参加する者が少なかった。そのため直ちに鳥取に赴くこともできず、まず羽衣石城を攻略してからのことと、8月11日杉原を先鋒として攻めかかった。12日に至り長和田表は破られたが、大谷口(長和田地内、羽衣石谷の入口)で南条勢はよく防戦し、ようやく寄手を門田前まで追い崩した。
『伯耆民談記』には、この戦いで「敵味方の死がいは土海〈はなみ〉の田野に充〈み〉ち、血は東郷湖水にみなぎれり。城中戦死の者、歴々の(主だった)者十五人都合百六十余人、寄手も百八十人討死し、両方の手負数を知らず」とある。
 この戦いで南条軍が奮戦したことが、吉川勢の鳥取城救援の機を失わせた一因とみられる。
 吉川勢の攻撃を退けて城を防衛した南条氏は、功労のあった者をほう賞している。例えば、元続が重臣山田畔助にあてた天正9年12月6日の感状に、
 今度籠城中、日夜辛身、神妙候、殊に度々粉骨浅さからず候(下略)
と記し、50石を加増している(資料編10号)。


馬ノ山と御冠山の遠望

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