第2編 歴史
第2章 中世
第3節 室町・戦国時代
 2  戦国時代の郷土
(2) 毛利氏の東伯耆支配と南条氏

元秋・氏豊の最期
 長和田・長瀬川の戦いで、南条九郎左衛門元秋は勇戦して重傷を負った。城に引き揚げる途中、手疵〈てきず〉が次第に痛み、植木縄手(東郷町、花見小学校まえの道)で度々落馬したので、仲間〈ちゅうげん〉(雑卒)が傍らの辻堂に入れて介抱していた。南条の重臣津村長門が元秋の重傷を気遣い馬を飛ばして来るのを、この仲間は敵が追って来たものと勘違いし、元秋の首(注)を打ち落とし、降参しようとした。
津村は大いに怒り、その仲間を切り捨てた。
その後、元秋の霊がたたりをなし衆民を悩ましたので、小社を建て、若宮大明神として祀〈まつ〉ったという(『伯耆民談記』)。
いま、花見保育所の横、椎〈しい〉の木のもとに祀ってある古い五輪塔がそれで、地元の人は地名をとって、「隈〈くま〉田さん」と呼んでいる。
また、同じく南条方の部将・山名小三郎氏豊(元倉吉打吹城主)も、杉原勢の猛攻を受けて敗北し、ようやくにして従者1人を連れて宇野坂から宮内・北方を経て、因幡の勝部谷(青谷町)に逃げ、さらに鹿野を指して落ち延びる途中、鳴滝の山中で長田肥前という強盗に殺害されたと伝えられる。後年、氏豊の霊魂がたたりをなしたので、鳴滝に新八幡宮を建てて祀ったという(『伯耆民談記』など)。
 非業〈ひごうし〉の死を遂げた人の亡霊はたたりをなし、人々を悩ますことが多かった。若宮とか○○八幡といった小祠〈し〉は、これらの人の鎮魂のために祀られた場合が多いといわれる。
 (注)これには異伝がある。青谷町潮津〈うしおず〉神社の宮司宮永家の系譜によれば、同家4代を花原九郎左衛門源元穐〈あき〉と記し、別紙記録に、「九郎左衛門元秋事、南条勘兵衛元続之弟ニテ、合戦之砌〈みぎり〉、打死トイツハリ(偽)、伯州泊り浦江住居イタシ候ヲ、養子ニイタシ、花原ト改ム(下略)」と討ち死にを否定している。参考のため付記する。



通称・隅田さん
南条元秋の霊を祀ったと伝えられる五輪塔
(長和田字「隅田」)

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